私のこと
はじめまして。
「そらのまど」を執筆している水輝と申します。
私の簡単な自己紹介から、占星術考察のための詳細な履歴書まで載せたいと思います。
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1992年12月4日 東京・台東区生まれ。
上野や浅草など、下町で幼少期を過ごしました。
父は飛行機の整備士、母は浅草の食堂育ちのケアマネージャー。
4歳の頃よりピアノを習い始め、今日まで続けています。高校では金属工芸、大学では芸術の分野を幅広く学び、日本画を専攻しました。
現在は、天文教育やワークショップ講師など、教育分野の仕事をしています。
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最近になって、自分にはHSPの気質があったことを知りました。会食恐怖症、パニック障害を経験し、現在も自分自身の体質と向き合っています。
この気質で辛いと感じているのは、音や感覚に対して敏感であること。映画館やディズニーランドは耳栓をしないと辛いのと、そもそも行きたくありません。チカチカとした光や水しぶきなどの演出も辛い…。
予防接種などの医療行為においては、感覚が1点に集中するため何度か神経反射を起こして倒れました。
それから、相手の考えていることが脳裏をよぎったり想像してしまうため、大勢のいる場所は疲れやすく感じます。先を読んでの行動は得意ですが、突拍子もないことが起こる前に対策をしている感じです。
おそらく、集合意識的なものも感じており、そういう時は怠かったり眠くなったり気持ちが落ち着かないことがあります。
自分は自分と割り切ること、相手との適切な距離感が大切なようです。
こういった経験から得たことを、noteに書き留めたいと思っています。
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アンティークなもの(古い硝子とか)や自然物が大好きです。特に、鉱物収集は10年が経過しました。コレクションの数が増え過ぎてしまったので、メルカリにて既に400個ほど放出、現在は石フリマにも出展しています。
(メルカリサイトはこちら)
同時に、石の魅力を多くの人に伝えたくて、作家としてオリジナルのアクセサリーを制作し販売しています。
(minneサイトはこちら)
どうぞよろしくお願いします。
私の履歴についても掲載します(長くなりますので二部制に分けます)
【私の履歴書】
0才(1992年)
生まれた頃、既にバブル崩壊。
赤ちゃんの頃から、動物に囲まれていました。子守してくれたのは、今は亡き茶トラ猫です。
3才くらいまで(1995年)
共働きだったので、幼少期は一人でいることが多かったです。たまに、母の食堂へも行きました。
色んなお客さんがいましたね。じゃがいもの皮を剥いていたら、おじさんが「偉いな」といってチップをくれたり。
「お客がついた、これで1杯のラーメンが食べれる」と、嬉しそうに商売の話をするお客さん。
堅気ではないお客さんもいました。
子どもの私には分からなかったけれど、そうやってお前は育ったんだよ、と言わました。
一方、私は‘おままごと’や工作が好きでした。食が細く食べるのが遅かったので…よく両親には心配されました。
レストランで見かける幼児用の椅子に座らされて、身動き取れない状況で食べさせられていたのが辛かったようです。
保育園が嫌でギャン泣き。
他の子ども達が引き受けないことをやりたがりました。
お遊戯会なら悪者役。花咲か爺さんの悪いお婆さん、影絵で赤ずきんちゃんの狼とか。大人たちから褒められると知っていたからです。
工作で上から下まで真っ黒なキャンドルをつくったり、お母さんのイメージでクッキーをつくるのなら、顔だけでなく胴体まで作りました。
将来の夢は外科医。好きな食べ物はピーマン。
4才(1996年)
体育会で、おさるのかごやを演奏する時、1名だけ"チャンチキ"役があって大人気でした。誰が正確なリズムを刻めるかテストをされ、抜擢されました。
元々音感が鋭かったようで、絶対音感があります。その後ピアノ教室を転々とし、保育園の上階にあったヤマハ教室のグループレッスンで定着しました。しかしながら、例によってギャン泣き。レッスン通いを拒絶する日々。
また、工作も好きだったので、画家が教えている教室に通っていました。
この頃、両親が離婚。
6才(1998年)
地元の小学校に入学。
月に1回くらい、学年を越えたグループで給食を取ったりするのですが、六年生の先輩からブス、死ねと言われたりしてました。何か相手のコンプレックスに障ったのか…スルーしてましたが、随分な言いようでした。
この頃から、学研という科学雑誌やチャレンジを購読。特に学研の影響は大きく、科学好きになりました。内容的にも現在の職業に繋がっています。
母子家庭で、母は夕方まで帰ってこないので、四年生くらいまで児童館通い。ベビーシッターや祖母がお迎えしてくれました。
★カードキャプターさくらのアニメが好き過ぎて、漫画がボロボロになるまで読み込む。
9~10才(2002年)ハーフ・ノードリターン
小学校四年生から五年生にかけて学校に馴染めず…ストレスで小児喘息を発症。何か月か不登校になりました。保健室の住民。
理由はいくつかありましたが、
・女子のギスギスした関係(言った言わない噂好き)、日常的に男子が女子を虐めているような環境。
・給食指導「残さない」
この二点が大きかったです。給食に至っては、残していることがバレないように防災頭巾入れに隠したり。母に「食べてない!」と言われたくなかった。
小学校は嫌気がさしていましたが、ヤマハのグループレッスンは共通の趣味同士の関係が楽しく、ピアノにも目覚めて息抜きになりました。
私がふさぎ込んでいる時期、母と共に茨城県の霊能者の元を訪ねました。
はじめて、除霊の瞬間を目撃。
★ドラマ「ごくせん」ヤンクミが颯爽と現れて、不良生徒に対峙する姿が好きでした。
12才(2004年)
地元の中学へ入学。校則の多さに、またもや嫌気が。
美術部へ入部しましたが、同級生はおらず、部員が5人くらいしかいませんでした。加えて、怪しいカルト集団みたいな雰囲気。馴染めなくなり幽霊部員となりました。
いつも、アリプロジェクトが流れているのです。
★ドラマ「牡丹と薔薇」香世の財布ステーキ、洋服を溶かすスプレーが怖過ぎました。
13才(2005年)
トイレを破壊したり先生に当たり散らす男子生徒、話の内容が下ネタばかり。その中でも裸婦がとびきり上手な子と友達になりました。自宅に遊びに行くと、ローゼンメイデンのアニメを見せられて、すっかりハマりました。この頃、美術室で奇妙に感じていたアリプロの良さが分かりました。今も好きです。
彼女はゴシックロリィタが似合う女の子でしたが、姫袖がめくれると手首にリストカットの痕。
同級生でも、割と闇を抱えている子が多かったです。
生徒会に入っている成績優秀な女の子は「親父に殴られた」と言って、頬などにガーゼを貼って登校したり。
かわい子ぶりっ子な女の子も、話したらリストカットしていると。
やはり理科や美術の授業が好きで、トップの子と競い合っていましたが…一方で、パニック障害の発作が出始めました。
授業が始まると、冷や汗が止まらなくなったり目の前が真っ白に。
拒食症も悪化、激痩せしました。
★ドラマ「女王の教室」いい加減目覚めなさい、というセリフを今でも覚えています。
15才(2007年)
指定校推薦で都立工芸高校へ。入学式は嵐でした。
アートクラフト科、鍛金・鋳金・彫金の技術を学びます。
周りは個性派集団。髪の毛真っ赤な人、鼻ピアス、ロリィタ、パンク、女装。何でもありでしたが、皆が課題に一生懸命取り組んでいたので、荒れることはありませんでした。
このような自由な校風が楽しくて仕方がなかったのですが、基本工場の作業員のような姿。真夏でも銀の溶解をしたり、金属を叩いていたので……金属臭が香水の代わりとなりました。
学校は9階建てで、8階が学び舎。見下ろすと、山なりになった高い土地に有名なお嬢様学校が見えて憧れていました。
乗り継ぎが浅草橋だったので、貴和製作所や天然石屋さんに足繁く通って楽しんでいました。
16才(2008年)
高校1年生の時は、学年成績が一桁台でしたが、またパニック障害が悪化してやや不登校気味に。この頃からガクッと成績が落ちました。教室で授業を受けると、閉鎖されているような感覚に陥って辛かったです。
電車に乗って通学するのがしんどくて、バスの乗り継ぎなど工夫しました。
19才(2011年) ノードリターン
大学入試が迫り、美大を受験することを決意、一浪します。一度、進路を芸術か音楽かで悩みました。音大の受験レッスンにも行ったのですが…現段階で厳しい、茨の道と言われ断念しました。
2011年3月11日の卒業式は、東日本大震災。
二次会で、やっと長い話が終わって食事の時間…というところで揺れました。皆さん無事でしたが、近くの九段会場では天井が落下する騒ぎがありました。こちらの会場でも豪華なシャンデリアが天井に激突するほど揺れて恐ろしかったのですが、友人はうお~揺れてると言って見ていて。心臓に毛が生えている……。
帰宅難民となり、ドレス姿で3時間くらい歩いて帰りました。
あれこれありましたが、高校時代は楽しかった。
今でも戻りたいと思うほどです。
美術の予備校へ通うも、緊急地震速報が鳴り続く日々はストレスそのもの。ただでさえ電車通勤が辛い中、作品制作中のピリピリした空気を引き裂く速報の音。
予備校生はこの音がしても、ピクリともしないで制作を続けます。
この緊迫した雰囲気が、私には駄目でした。自分の描いた絵は最下位。そう、才能に点数が付けられていくのです。周りは三浪が当たり前、中には八浪の人も。
耐え切れなくなって、近くの大きな公園の芝生広場で寝そべり、ただ流れゆく雲を眺めたり、一人で植物のスケッチをしたりして、なんて自分はちっぽけなのだろうと考えていました。
励ましのために、美大の学園祭へ行きましたが……そこでも何かに当たってしまい、気分が悪くなりました。
この道は向かないと思い、志望校を変更。
20才(2012年)
東京家政大学 造形表現学科へ入学。
周りは1才年下で、自分だけはみ出し者な感じ。受験に失敗した気持ちから劣等感も強く、ほとんど一人行動。
母に「必ず資格を取って卒業して」と言われ、学芸員と美術の単元を取得し始めます。
変わらず登下校が辛かったので、バスの乗り継ぎで工夫していました。ラッシュ時など、酷い時は途中で具合が悪くなり、自宅へ引き戻る日々。
それでも、10年来の親友と出会って、自分史がひっくり返りました。
最初は皆と仲良くしたくなくてツンツンしていたのに、私が体調が悪くなると真っ先に心配して、ノートを見せてくれました。
そうやって少しづつ、閉ざしていた心が開かれたように思います。
一方で、ふとした情報源から「アセンション」について知る。
どうしてもこの用語が気になり、当時住んでいた自宅の屋根裏で…意味も分からず、その時刻に合わせて瞑想。私も繋がりたいという一心でした。
これが、人生で初めての瞑想でした。
21才(2013年)
運命のミネラルショーへ。行ったが最後、鉱物収集がはじまります。
最寄り駅の東十条には「きらら舎」さんのカフェがあり、よく鉱物や天文学のお品物を見に行きました。
このこともあり、専攻を金属工芸ではなく日本画にすることを決めます。
ベートーベンの交響曲第9番に惹かれて、合唱団へ入りました。
1時間もの間、人前で身動きが取れないのは…私にとって試練でもありましたが、それよりこの歌を通して、自分自身を解放したいという想いが強かったのです。
音楽の一体感は恐怖をも溶かします。まるで、天界の扉が開いたかのような素晴らしい経験をさせていただきました。
続きます。
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