18.屋根だけでなく壁も付けたー廊下橋
日本で多用された木造橋の大きな課題は、その耐久性の向上であった。そのため、雨水の侵入を防ぐ「屋根付き橋」が架けられた。この屋根付き橋の発想は、部屋と部屋とをつなぐ「渡り廊下」につながる。
一方、目的は異なるが、屋根だけでなく塀や壁まで設けた廊下橋の存在も古くから知られている。
寄藻川に架かる宇佐神宮の呉橋
大分県宇佐市の「宇佐神宮」は、全国に4万社あまりある八幡社の総本宮で、応神天皇が725年(神亀2年)に現在の地に御殿を建立し、八幡神をお祀りしたのが創建とされる。
過って、宇佐神宮の西を流れる寄藻川に架かる「呉橋」は、朝廷より派遣された勅使が通るための勅使街道と宇佐神宮境内を結ぶ神域への玄関口であった。
昭和初期まで「呉橋」は表参道に位置し、一般の人も呉橋を渡って参詣していたが、現在は西参道の入口に位置し、一般の人は脇に架けられたコンクリート橋を渡って境内に入る。
橋長:24.67m、全幅:3.46m、唐破風の檜皮葺き屋根に覆われた豪勢な廊橋(廊下橋)である。
現在の橋は、御影石の3本横並びの柱状橋脚3基の上に、木造廊下が設置され、桁・柱・腰板は朱色、格子窓は緑色、壁は白色に彩色されている。廊下が設置されない入口部分は、橋脚、桁ともに鉄筋コンクリート製である。
呉橋が架けられた年代は定かでない。文献によれば1309年(延慶2年)に呉橋の名が登場しており、鎌倉時代には既に存在し、中国の呉の人が架けたともと伝えられている。
当初、国内における廊下橋は、呉橋のように現世と神域とを結ぶ特別な意味で使われたのであろう。
大阪城北側の堀に架かけられた「極楽橋」
1596年(慶長元年)に豊臣秀吉が架けた「極楽橋」は、大阪城北側の山里丸から二ノ丸に渡る豪勢な唐破風の廊下橋であったと伝わる。
宣教師ルイス・フロイスは極楽橋を「木造で総漆、金箔や宝石を散りばめ、彫刻で絵を描いた極彩色の50mほどの橋で、小櫓が太陽の光を浴びると素晴らしい輝きを放つ」と絶賛し、記録に残している。
秀吉没後、1600年(慶長5年)に橋を崩して京都東山にあった豊国廟に移築されたことは、醍醐寺座主による日記『義演准后日記』に記されている。
その後、1602年(慶長7年)に琵琶湖の竹生島に移築したと豊国廟社僧の梵舜が『舜旧記』に記している。
現在の大阪城に架かる極楽橋は、山里丸と二ノ丸とを結び、橋長:54m、全幅:5.4mで、橋脚と主桁を鉄筋コンクリートとした4径間桁橋である。
福井城の堀に架かる御廊下橋
福井城の「御廊下橋」は、本丸と三ノ丸御座所の往復に用いた藩主専用の橋である。2008年(平成20年)に福 井城の築城400年を記念し、福井県と市により明治初期の古写真をもとに当時の姿が復元された。
御廊下橋は山里口御門外の堀に架けられ、橋長:14.5m、全幅:3.6mである。橋脚は耐久性に優れた直径30cmの栗丸太4本(2本組×2基)とし、上屋は総檜造りで、金物や釘を使わず組み立てられている。
上屋の内外の壁は漆喰塗りとし、外壁には板を水平方向に張る下見板張り、内壁は腰の高さまでの腰板張りが施されている。
復元にあたり、堀の中のコンクリート礎石と、橋脚の栗丸太を連結する金具として、水中用オールステンレス製のホールダウンが使われている。木造橋脚の場合は浮力が問題となることから、古の時代にはどのような方法で橋脚を固定したのか興味は尽きない。
全国各地の城に見られた廊下橋
昔から、全国各地の城には廊下橋があった。廊下橋は戦国時代には攻撃を防ぐのに有効であり、多くは城主専用として姿を見せないために工夫されたと考えられる。
大分市の府内城には、本丸と二の丸を連結する「廊下橋」が、1966年(昭和41年)に発掘調査と文献に基づいて復元された。橋長:21.7m、全幅:2.4mの7径間桁橋で、木造りの橋脚が使われている。
和歌山城には、堀で分断された二の丸と西の丸を渡す「御廊下橋」が、2006年(平成18年)に江戸時代の図面に基づいて復元された。橋長:26.7m、全幅:2.95m、勾配:11°で、藩主とお付きの人だけが往来できた。
一方、会津若松の鶴ヶ城にも本丸と二の丸の間の堀を渡す「廊下橋」が架けられている。また、彦根城の本丸入口である天秤櫓門前の堀切にも「廊下橋」が架けられている。しかし、いずれも現在は屋根も壁もない普通の桁橋である。高知城や盛岡城の本丸入口も同じ構造である。
しかし、その名の由来から昔は屋根や塀・壁が設けられた廊下橋であったと想像しても不思議ではない。