35.国産鉄材を用いた最初の橋ー東京都江東区の八幡橋
日本における最初の鉄の橋は?
江戸時代末から明治にかけて、文明開化の一環として鉄材を使う橋の建設が始まった。
初の鉄橋は、1868年(慶応4年8月)に長崎市内を流れる中島川に架けられた「銕橋」であった。木造橋が水害で流された跡地に、橋長:約22m、全幅:約6mの錬鉄製の1径間桁橋が架けられた。
現在は、1930年(平成2年)に3代目となる鉄筋コンクリート橋に架け替えられているが、欄干には「鉄の橋」の銘がある。
二番目の鉄橋は、1969年(明治2年)に横浜開港期の開港場(関内と呼ばれる)と関外とを隔てる堀川に架かる「吉田橋」である。
交通量の増加により木造橋から架け替えられ、橋長:約23.6m、全幅:約9.1m、高さ:約1.8mの錬鉄製の1径間トラス橋であった。埋立地の吉田新田に架かる橋が名称の由来である。
現在は、1978年(昭和53年)に5代目となる鉄筋コンクリート橋に替え替えられ、通称「かねの橋」と呼ばれた初期のデザインが欄干に残されているが、堀が埋め立てられて高速道路となり昔の面影は見られない。
いずれも橋長:20mを超える錬鉄製の1径間橋であり、木造橋を知る人々は、橋脚の無い鉄橋を渡ることで文明開化を肌で感じたことであろう。
しかし、鉄材・設計 ともに輸入品であったため、わが国初の国産鉄材を用いて架けられた橋は、1878年(明治11年)に架けられた「八幡橋(元弾正橋)」とされている。
初めて国産鉄材を用いた八幡橋とは?
現在の八幡橋は、東京都江東区富岡の八幡堀遊歩道上に架かる人道橋である。橋の西側にある富岡八幡宮が、名称の由来である。
元は、現在の中央区宝町の楓川に架かる弾正橋であったが、市区改正事業により別に弾正橋が架けられたため、元弾正橋と改称された。
その後、元弾正橋は関東大震災後の復興計画で廃橋となり、1929年(昭和4年5月)に現在の位置に移設されて「八幡橋」と改称された。
「八幡橋」は、アーチ端部を弦で結んだタイドアーチ(Tied Arch)形式である。橋長:15.2m、全幅:3.6m(有効幅:2m)、高さ:約2.1mの、独特な形をした下路式単径間トラス橋である。
また、移設当時の橋は八幡堀という河川に架けられていたが、後に八幡堀は埋め立てられて、現在のような遊歩道となった。
旧弾正橋(八幡橋)の歴史
1878年(明治11年11月)、旧京橋区(中央区南部)の楓川に架かる弾正橋は、木造橋から鉄材の橋に架け替えられた。使用された鉄材は 東京府の依頼により工部省赤羽製作所で製造され、国産鉄材を用いた最初の橋となる。
架橋時の弾正橋は、橋長: 8間2尺(約15.2m)、橋幅: 5間(約9.1m)と記録に残されている。米国人技師スクワイヤー・ウイップルが発明した形式を元に国内で製作され架橋された。
1912年(大正2年)の市区改正事業により、楓川の北側に新しい弾正橋が架けられたため、 当初の弾正橋は「元弾正橋」と改称された。
1923年(大正12年)の関東大震災後の帝都復興計画 で、1926年(大正15年)に道路が拡幅されて元弾正橋は廃橋となった。
1929年(昭和4年5月)、廃橋となった元弾正橋は東京市最古の鉄橋であり、記念として残すため旧深川区(江東区)油堀川支川の八幡堀に移設され、「八幡橋」と改称された。
この時、橋の有効幅は2mに狭められ、床版の全面打換え が行なわれたことが記録に残されている。
1976年(昭和51年)、油堀川支川は埋め立てられたが、八幡橋は残されて人道橋として使用 される。
1977年(昭和52年)に国指定重要文化財に指定され、1989年(平成元年)に、日本で初めて米国土木学会(ASCE)より土木学会栄誉賞が贈られた。
1990年(平成 2年)、景観工事が行われ、橋下が遊歩道に整備され、現在の景観となった。
旧弾正橋(八幡橋)の構造と膨らむ想像
八幡橋(元弾正橋)には、圧縮力をうけるアーチ材は鋳鉄製、引張力を受ける丸棒材は錬鉄製という独特な構造が採用されており、鋳鉄橋から錬鉄橋に発展する過渡期の鉄橋と位置付けられている。
アーチ材は一体鋳造ではなく、長さ:約3mの鋳鉄部材5本を結合することで、製造されたと考えられる。当時は溶接技術も発達しておらず、鋳鉄の溶接は極めて困難なことから、古来から用いられてきた鋳継の技術が使われた可能性が高い。
また、鋳鉄製のアーチ材と、主桁(鋼床版)を支える4本の横梁(中空角材)とを縦につなぐ丸棒材にはネジが切られ、上下端部をナットで留めて連結されており、引張力を受けている。
主桁(鋼床版)を支える4本の横梁(中空角材)の両端部は、回転自由のピン機構となっており、それぞれ4本の丸棒材によりアーチの弦部分を構成している。このピン端部には、菊の花弁装飾が施されている。
八幡橋(元弾正橋)を製作した赤羽製作所とは
1870年(明治3年)、殖産興業を推進する中央官庁として工部省が創設され、明治4年に工部省内 に開設された製鉄寮に製鐵所が創られ、明治6年に製作寮に移り赤羽製作所が設置された。
赤羽製作所は、現在の東京都港区三田一丁目付近に設置された工部省管轄の官営工場の一つで、芝赤羽の旧久留米藩邸に開設された製鉄寮を前身とし、諸機械や蒸気機関などを製作した。
1877年(明治10年)に工作局が置かれると、これに属し赤羽工作分局となる。現在の製鉄所とは異なり、鋳物場、鍛冶場、製缶場で構成された金属加工工場である。同じ工作局の深川工作分局では、セメントや耐火れ んがなどを、品川工作分局ではガラス器具などが製造された。
八幡橋(元弾正橋)は、アーチ材を鋳鉄製、引張材は錬鉄製で構成された伝わる。赤羽製作所ではアーチ部材を鋳物で造り、錬鉄の引張材にネジ加工を施して組み立てることは可能であるが、鋳物原料となる銑鉄や錬鉄の入手に関する情報は明らかではない。
しかし、1853年(嘉永6年)には佐賀藩が江戸に築地反射炉を建設し、鳥取県の岩見産の和鉄を原料として錬鉄を製造しており、1858年(安政5年)には南部藩が釜石の鉄鉱石を使った初の洋式高炉を完成させている。官営釜石製鉄所の操業は1880年(明治13年)を待つことになるが、八幡橋(元弾正橋)向けの国内での鉄材調達は可能であったと考えられる。