44."震災復興の華"と呼ばれた華麗な吊橋ー清州橋
物学の重要性
「風姿花伝第二 物學條々」の冒頭に、次のような記述がある。
『物学の品々、筆に盡し難し。さりながら、この道の肝要なれば、 その品々を、いかにもいかにも嗜むべし。およそ、何事をも、残さず、よく似せんが 本位なり。』
この「風姿花伝」とは、亡父観阿弥の教えを世阿弥が集成した能楽の聖典の一つである。室町時代15世紀の初めに記された書であるが、伝書として連綿と読み継がれている。
興味深いのは、「物学」を「ものまね」と呼んだことである。学ぶことの基本は「ものまね」に始まり、とことん真似ることで、その本質を見極める姿勢の重要性を示唆している。
この「ものまね」の重要性は、能楽以外の芸能や技術面でも通じる。
関東大震災により壊滅的な打撃を受けた首都圏では、その復興に向けて橋梁先進国の欧米から新技術の導入を加速し、その本質を理解することにより大きく技術ポテンシャルを上げた。
隅田川に架かる清州橋
現在の「清州橋」は、関東大震災復興事業として架けられた。過って、「中洲の渡し」と呼ばれた渡船場に設置され、その名称は、東詰の深川区清住町と西詰の日本橋区中洲町から1字づつ取ってつけられた。
1926年(大正15年12月)には、当時、隅田川の最下流にあった第一橋梁「永代橋」が、首都の入口にふさわしい重厚なアーチ橋として建設された。
その3年後に、上流に架橋された第二橋梁の「清州橋」は、対照的な吊橋が採用された。「震災復興の華」とも呼ばれた美麗なデザインである。
永代橋はドイツのライン川に架かるレマゲンのルーデンドルフ橋を、対となる清洲橋はケルンのヒンデンブルグ橋を模したデザインとされる。しかし、両橋ともに第二次世界大戦で破壊され、今では見ることができない。
「清州橋」は、内務省復興局土木部長の太田圓三と同局橋梁課長の田中豊の設計・施工方針に基づき、技師の鈴木清一が上部構造の主設計を担当し、技師・隅田川出張所長の釘宮磐を中心に川崎造船所(現川崎重工業)など複数社により建設された。
上品な貴婦人風の流麗な外観とは裏腹に、チェーンをメインケーブルとした懸垂線が、濃いめの青の塗装と相まって、内に秘めた強さを主張する。
橋長:186.2m、幅員:25.9m、中央支間長:91.4mで、鋼鉄製の三径間自碇式補剛吊橋である。1925年(大正14年3月)に着工され、1928年(昭和3年3月)に完成した。
自碇式吊橋は、メインケーブルを巨大アンカーに固定することが困難な場合に主桁の両端部に固定する方式で、「自己アンカー式吊橋」とも呼ばれる。主桁には大きな引張力が作用するため補剛桁が重要となる。
採用されたチェーン吊橋
20世紀に入ると吊橋のメインケーブルは、鋼製ケーブルが主流となっていた。しかし、「清洲橋」には、両端に孔のあいた細長い鋼鉄製のアイバーを重ねてピンでつないだチェーンがメインケーブルに採用された。
「清州橋」が建設された時代、国内メーカーでは高規格の鋼製ケーブ ルを製造できなかったことが大きな理由である。しかし、大きな引張力が作用するチェーンのアイバーには、当時の世界最高水準の強度を示す高張力鋼が採用された。
このデュコール鋼(低マンガン鋼)は、英国海軍が軍艦用に開発した材料で、国内では川崎造船所(現川崎重工業)が製造し、永代橋の主桁アイバーに採用されて実績を積んでいた。
当時は、厚板鋼板の製造が困難であったため、鋼板を重ね合わせることで設計上必要な板厚が確保された。重ね合わせには多数のリベッ ト(鋲)が用いられた。
高さ20.3mの主塔は、重ね合わせた鋼板による6セル箱構造で、塔頂部にはチェーンが直接ピンで固定された。
清州橋の下部構造
先行した「永代橋」の建設には米国人技術者の助力を得たが、3年後の「清洲橋」の建設は日本人により進められた。「清州橋」の床版、基礎、橋台は、先行した「永代橋」で確立された技術が使われた。
床版には、現在用いられるような鉄筋コンクリート床版ではなく,バックルプレート床版が採用された。すなわち、厚さ8mm鋼板 の上に無筋の軽量コンクリートが敷設された。
軟弱地盤に対応するため、橋台基礎は「永代橋」建設時に購入されたNewyork Foundation Co.の施工機械を使い、Pneumatic caisson method(ニューマチックケーソン工法:潜函せんかん工法)により設置された。
平均潮位下約24m~26mまで埋め込んだ鉄筋コンクリート造りの基礎の上に橋台が築造された。橋台の側面と頂部には花崗岩を貼り付けているが、コンクリートを施工する 際の型枠として使われたもので、流木などからコンクリート を保護する意味もある。
主塔と橋脚の接続部に用いられたのは球面支承である。半円状の鋼板を組み 合わせて球体化したもので、全方向に回転できる。
清州橋の歴史
江戸時代以来、この地には「中洲の渡し」と呼ばれた渡船場が設置され、渡し舟を利用して隅田川両岸間の交通が行われてきた。
そのため、1928年(昭和3年3月)に、震災復興事業の一環で「清州橋」が完成してから橋の歴史は始まる。
2000年(平成12年)、帝都を飾るツインゲートとして、清洲橋と共に土木学会の「第一回土木学会選奨土木遺産」に選定された。
2007年(平成19年6月)、隅田川に架かる永代橋、勝鬨橋、清州橋は共に国の重要文化財(建造物)に指定された。
2018年2月~2020年3月、清州橋長寿命化工事(塗装)が実施された。