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38.スカイツリーとも良く調和するー永代橋


隅田川すみだがわに架かる永代橋えいたいばし

 現在の「永代橋」は、関東大震災復興事業として架けられた。架橋当時に隅田川の最下流にある第一橋梁であったため、首都の入口にふさわしい重厚なアーチ橋が採用された。
 また、3年後に上流に架橋された第二橋梁の「清州橋きよすばし」には、対照的な吊橋つりばしが採用された。この2橋は震災復興のシンボル的な位置付けとされたた。

 永代橋はドイツのライン川に架かるレマゲンのルーデンドルフ橋を、対となる清洲橋はケルンの吊橋を模したデザインとされる。しかし、ドイツの両橋はともに第二次世界大戦で破壊され、今では見ることもできない。

 この隅田川に架かる「永代橋」は、設計原案を内務省復興局土木部長の太田圓三えんぞうと橋梁課長の田中豊が作成、技師の竹中喜義きよしの詳細設計に基づき、技師の釘宮磐くぎみやいわおを中心に川崎造船所(現川崎重工業)など複数社により建設された。1923年(大正12年12月)に着工され、1926年(大正15年12月)に完成した。

 堂々とした重厚感あふれる外観にもかかわらず、アーチから裾に流れる美しい曲線が、空色の塗装と相まって、穏やかなイメージをかもし出している。 

写真1 関東大震災復興事業の第一橋梁として隅田川に架けられた「永代橋」

 橋長:184.7m、幅員:25.6mの鋼製の三径間下路式カンチレバー式タイドアーチ鋼橋である。2基の鉄筋コンクリート橋台上に設置された支間長:100.6mの下路式タイドアーチ橋と、その両側に設置された桁橋けたはしで構成される。
 両側の桁橋けたはしは、タイドアーチから突き出た突桁つきげたの上に設置された吊桁つりげたである。 

写真2 永代橋のアーチは両側の桁橋に向けて緩やかなカーブを描く

永代橋に採用された新技術

 関東大震災復興橋梁は、国力示威のため設計・施工・材料まですべてを国産でまかなわれる方針であった。しかし、河口付近の地盤が軟弱で、強固な基礎を造る必要があったため、永代橋と清洲橋は例外とされた。

 米国の基礎工事会社Newyork Foundation Co.から施工機械一式を購入し、専門技術者が招聘しょうへいされて、当時の最先端技術であるPneumatic caisson method(ニューマチックケーソン工法:潜函せんかん工法)が導入された。

 軟弱地盤に耐える橋台基礎は鉄筋コンクリート造りで、橋台の側面と頂部には花崗岩が貼り付けられているが、コンクリートを施工する 際の型枠として使われたもので、流木などからコンクリート を守る目的もあった。

図1 ニューマチックケーソン工法 出典:日本圧気技術協会

 また、タイドアーチ(弓)の弦に相当するEyebar(アイバー)には、当時の世界最高水準の強度を有する高張力鋼が採用された。このアイバーには、高い引張力が発生するため、英国で戦艦用に開発された引張強度 63kg/㎟のDucol(デュコール)鋼が採用された。
 世界的には高張力鋼はニッケル鋼が主流であるが、デュコール鋼は国内でも入手が可能なマンガン鋼である。

 床版には、現在用いられるような鉄筋コンクリート床版ではなく,バックルプレート床版が採用された。すなわち、厚さ8mm鋼板 の上に無筋の軽量コンクリートが敷設された。バックルプレート床版は、昭和10年代以降の橋には用いられていない。

 アーチを支える鋳鉄製の支承は、ローラー支承とピン支承であり、建設当時は国内最大の大きさであった。

 当時は、厚板鋼板の製造が困難であったため、鋼板を重ね合わせることで設計上必要な板厚を確保し、重ね合わせには多数のリベッ ト(びょう)が用いられた。
 整然と並ぶリベットは、無機質な鋼板にリズミカルなアクセントを与えている。

写真3 永代橋の橋台上に設置された支承部と下部構造

江戸時代にさかのぼる永代橋の歴史

 永代橋の架橋は1698年(元禄11年8月)といわれ、江戸時代の第五代将軍徳川綱吉の生誕50年を記念し、関東郡代の伊那忠順が普請奉行に任ぜられて行われた。橋名は、江戸期に対岸にあった中洲の永代島が由来とされるが、江戸幕府が永代続くことを祈念したとする俗説もある。

 現在の永代橋よりも約100m上流の「深川の渡し」と呼ばれた渡し船があった場所に、初代の木造橋が架けられた。
 隅田川(旧大川)に架かる1660年(万治3年)架橋の両国橋、1693年(元禄6年)架橋の新大橋とともに、浮世絵や短歌の題材として数多く取り上げられてきた。

写真4 隅田川テラスの初代「永代橋」が架けられた場所には、浮世絵と歴史が示されている

 初代「永代橋」は上野寛永寺根本中堂の造営の余材を使った桁橋で、橋長:114間(207m)、幅員:3間4尺5寸(6.8m)で、桁下は運搬船が往来できるよう、大潮のときでも1丈(3m)以上が確保された。

 1719年(享保4年)、財政難に陥った江戸幕府は永代橋の維持管理を諦めて廃橋を決定するが、町方の嘆願で民間維持を条件に存続が許可された。
 しかし、巨額の維持管理費用を町方に負担させることを困難と考えた幕府は、期限付きの通行料徴収を認め、町方による橋の運営が始まった。早速、1729年には橋の架け換えが行われ、その後も、焼失や流失による大規模修復が必要な場合には、通行料徴収が認められた。

 ところが、1807年(文化4年8月)、深川富岡八幡宮で34年ぶりに祭礼が復活して江戸市中から多くの民衆が押し寄せ、橋の中央部よりやや東側の数間が崩れ落ち、記録に残るだけでも死者が500人を超える大惨事となった。
 事故原因は、群衆荷重を受けた橋脚杭が泥中に2.1~2.4mほどめりこんだために橋桁が折れたとされている。

 落橋事故の翌年、交通の要衝である橋の維持に幕府も理解を示し、町方管理とされていた橋が幕府管理に戻され、永代橋のみならず新大橋も幕府資金により架け替えられた。

 1897年(明治30年)、現在の場所に鋼鉄製の三径間曲弦プラットトラス道路橋が架設され、木造橋であった旧永代橋は廃橋となった。
 1904年(明治37年)には、路面電車も敷設され道路/鉄道橋として使われた。その路面電車は1972年(昭和47年11月)に廃止された。 

 1923年(大正12年9月)、関東大震災により永代橋は炎上し、多数の避難民が焼死、あるいは溺死した。大正時代までは、多くの橋が橋床に木材を使用していたためで、両国橋や新大橋も木材を使用していたが、炎上を免れて避難路として機能した。

 1926年(大正15年12月)、関東大震災復興事業として、現在のアーチ橋である「永代橋」が架橋された。もうすぐ百歳を迎える。

 2000年(平成12年)、帝都を飾るツインゲートとして、清洲橋と共に土木学会の「第一回土木学会選奨土木遺産」に選定された。

 2007年(平成19年6月)、隅田川に架かる永代橋、勝鬨橋かちどきばし、清州橋は共に国の重要文化財(建造物)に指定された。

写真5 永代橋のたもとに掲示された銘板

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