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誰かの考えを拝借するのではなくて、自分にとっての生きる意味とは?
前段として、「意味」について考えていたと。
「意味」があることをしたい… って、何か変だな…
— 伊藤 貴洋 (@110_TakahiroIto) July 25, 2020
「無意味」なことをしたくない って、ことだと思うが。
何が変なのか、イマイチ言語化できないが。
うーん 🤔
Quoraをしてよく遭遇する質問である。「生きる意味」云々について考えていた。
参考までに、Quoraの「生きる意味」のトピックのリンクを張っておきます。
私は、モヤモヤと考えていて…
「生きる意味がわからない」ということは、これから生きていく方にとっては、既知の事実であると。(未来のことなんて、わからないから当然であると…)わからないことに耐えるのが難しいから(?)、引っかかるのか、なんなのか。生きる意味の定義を他者から与えられれば、楽かもしれないが…?
— 伊藤 貴洋 (@110_TakahiroIto) July 25, 2020
私としても、上記のツイートに対して、カウンターとして、いくつか考えが浮かんで、例えば、ヴィクトール・E・フランクルさんが提唱(?)したと思われる。
「人生に意味があるのではなく、人生があなたに意味を問うているのだ。」
といったことだったり。
あとは、コメントを頂けたのですが、NPO法人抱樸さんの思想も力強いと思った。
①生きることに意味がある
「生きる意味のないいのち」が公然と語られる時代。抱樸はこれと闘い、「生きることに意味がある」と言い切ります。共生社会は大切です。しかし、共に生きることができなくても、ひきこもっていても、「生きているという事実」に意味があります。世の中が「生きる意味」や「存在意義」、「生産性」を問うとき、その答えを見出せなくても、「今、生きていることに意味がある」と抱樸は宣言します。これこそが、私たちが最も大切にしている普遍的価値だからです。
これらの考えは、これらの考えで、凄いと思うのですが、私は、本当に、どう思うか? と問われると、なんか窮するというか、何かうまく言語化できない。私は、現状としては、生きる意味に対して悲観的だという訳でもないですが。
例えば、誰かから、「生きる意味ってあるんですか?」と質問された場合に、フランクルの思想や抱樸さんの思想を利用するかというと、私は、そんなことはしない。ただ、わからないって、訳でもないのだが、わからないって答えるのかもしれない(なんだよ? ですが…)。その質問の背景に、何があるのか探ったりするのかもしれませんが…
言語化しなければ、わからないことだが… 言語化する意味とは? うむむ… といった具合に…
私が直接、生きる意味云々について、悩んでいる訳でもないのですが、ふと思って、noteに投稿してみました。