1メートル先も見えない俺を色鮮やかに照らす光(三井岳編)
このお話は「トライアングル・ドライブ」の三井岳を時間軸順に追った物語です。
独立したお話なので単品としても召し上がって頂けます。
また、 「トライアングル・ドライブ」では描かれなかった内容としては、岳はいつみの高校で石とは別にあるものも見つけます。
いつみが暗記では点を稼ぐのが難しい数学の点の取り方も書きました。
お暇ならぜひどうぞ〜
俺と真人との付き合いは長くて、幼稚園の頃からの幼馴染だ。
幼稚園年中の頃の思い出がふいに思い出される。
こばと幼稚園の園内で俺が手にしていたレゴブロックを目の前にいた真人に無理やり奪われたことにカチンときたので、俺は思い切り左手でばちんと真人の頬を張った。
俺はもともと左利きなので。親は右利きになるよう矯正しようとしたが幼いころの俺は親の言う通りにするような良い子ではなかった。
真人をほぼ無意識に引っ叩いたあと、真人は目を見開いたと思ったら顔をくしゃくしゃに歪め、今度は顔を真っ赤にしてうわーん!と大声を出した。真人の両目から大粒の涙が溢れる。
真人の瞳は二重でくりくりとして、まつげも長かった。虹彩は薄茶色で見ていると吸い込まれそうになる。瞳の色だけではない。髪の毛も黒々とした俺の髪とは違って栗色で艶のある毛質をしていた。
時々女に混じってスカートを履いてままごとしたりするから、真人お前オンナみてえだなとからかったことがある。
「岳くんっ、なんてことするの!」
真人の喚き声を聞いた年中クラスの担任岡田さおりちゃんが慌てて駆けつけ俺を怒鳴りつけた。マンマミーヤ。天井を仰ぐ、ランランと射すやっすい蛍光灯。彼女を無視して室内をぐるり見渡す。
教室の右手奥には女子たちがひらひらしているママさんお手製のスカートをはいてお姫様ごっこをしている。そのすぐ横では別グループの女子がおままごとを始めようとしている。左手にはプラレールをつなげる男児、ドクターイエローの黄色が光る。
「自分がされたら嫌なこと、されたら嫌でし
ょう?」
至極真剣な眼差しでさおりちゃんが叱ってくれるが、彼女の大きなおっぱいに俺の目はくぎ付けだった。こら、岳くん、ちゃんと先生の目を見てお話しようね。
こばと幼稚園では年中クラスをさおりちゃん、年長クラスは長門みおちゃんが受け持っていた。みおちゃんはおっぱい小さいし、でぶんでぶんだから俺の担任じゃなくてよかった。肌質もおばさんぽくてなんか好きじゃないし。
この年、さおちちゃんは寿退社をした。お別れの日、園児に囲まれながら質問攻めに合い「ねえせんせー、彼氏とちゅーとかしたのー?」と園児から訊ねられてはにかみながら頷いた。
顔を赤らめながら質問に応じるさおりちゃんの横で、みおちゃんは終始真顔でへーとかふーんとか白けながら相槌を打っていた。いつもにこにこさおりちゃんとお話しているくせに変なの。
女って変な生き物だ。女って変で、変だから女って面白いなってこの頃から俺は思っていた。
黒板に白いチョークで雑に書かれた文字、9月10日、今日の日直 三井・武藤。
なんて素敵な組み合わせだろう。うっとりしながら黒板を眺める。おっと、俺は口の緩みを正してから指でチャッと黒ぶち眼鏡の位置を直した。
東京は9月に入ってもアスファルトの照り返しを受け猛暑日が続いている。それにもかかわらず教室内のエアコンが故障しているからまだ朝の8時半過ぎなのに生徒はダラダラと額から汗をかいている。
こんな日はハーゲンダッツのアイスでも食べたい。開け切った窓の外には澱んだ色の隅田川が緩やかに流れる。風に乗って海辺のような臭いが教室に流れ込んでくる。今日は一段と川の臭いが酷いな。
目線の先には空色の東京第二電波塔がビンビンにそびえたっている。
スクールバックを机の横にかけて飲み物でも買いに行こうとしたところで後ろから武藤いつみに声をかけられた。
俺の通う中学の制服は、女子は学年ごとにリボンの色が違う。俺と同じ2学年のいつみはえんじ色のリボン。暖色系の色は活発な彼女に良く似合っている。リボンの結び方が雑で長さがあってないけれど。
「三井君、消しゴム貸してくれない」
彼女のポニーテールが左右に揺れてかわいい。そういえば、後ろの席に座るいつみは毎度忘れものが酷い。
「え、今?後でいい?」
「ううん、今がいいの。いま貸して。ここ消したいから」
いつみは英語の教科書に書きこんだ文字を俺に見せた。ここ、消したいの。彼女は教科書だのペンケースだの体操着だのとにかく毎日なんかしら忘れてくる。随分忘れ物多くない?落ち着きなさすぎでしょと言ったことがある。
その時いつみは、特に深刻そうな表情はしていなかったけど、なんかそういう障害持ってるみたいなんだよねと返してきたからそれ以上深く突っ込めなかった。人には人の事情があるもんだ。人には人の乳酸菌。いつみにはいつみのマイハンデ。
いつみは彼女の体のどこかにスイッチがあるみたいで、授業中でもちょっとした拍子にスイッチがオンになると授業そっちのけでことを始めてしまう。例えば、科学の授業で校庭に出て葉の観察が必要なのに、ひとりで走り幅跳び用の砂場へ行き、しゃがみこんで石つぶを観察し始めたことがあった。
クラスの女子はまたいつみがおかしなことを始めたといって笑ったがもう慣れっこで少し変わったいつみを放置している。かといって仲間はずれなどはせず「いつみとはそういうもの」として受け入れている。
俺は石つぶを厳選しているいつみのそばによって彼女の様子を眺めた。左手にはさっき抜いたクローバー。指先でくるくるまわしながら彼女の動作を眺めた。しばらくしてクラスの女子が「いつみ何探してるの」と近づき、いつみが「見て、綺麗な石があるの」と答えて手のひらに小さな石つぶを乗せて見せた。そのうちクラスの女子全員が樹木の観察をやめて砂場に集まり石探しを始めた。
呆れた科学教師の矢萩も樹木に関する説明を中止して砂場に生徒全員を集めるとこう言った。
「おーい石探し続けていいからお前ら耳だけこっち傾けろ。今から岩石について説明するからちゃんと聞いとけよ。テスト出すからな」
そう言って矢萩は朗々と岩石に関する授業をはじめた。いつみは人を惹きつけて周りを巻き込んでしまう何かを持っていた。その何かが何なのかは良く分からない。きっと誰にも説明できない。
教室の話に戻る。俺は消しゴムをケースから外してペンケースからカッターを取り出し、右手で消しゴムを押さえて左手でカッターを握り、消しゴムを半分に切ってからいつみに渡した。はいどうぞ、他に忘れ物ない?と訊ねると
「わ!消しゴム切ってくれたの?ごめんね、三井君ありがとう、あとシャーペン貸して」
といつみ。シャーペンも忘れたの?苦笑いしてからペンペースからシャーペンと替え芯を渡した。俺がいつみを好きじゃなかったらここまでしない。いつみは普段の顔は特段可愛いわけではないのに、笑うとくしゃりと顔が崩れその場の空気全体が揺れるのが素敵だ。その崩れた顔をたくさん見せて欲しいと思う。俺は今年初めていつみと同じクラスになった。
四月。窓の外は隅田川沿いに植えられた桜の花びらが風に舞っていた。スカイツリーの水色と桜の薄い白が相まって油絵の具を使って描いた風景画のようだった。横を見ると同じ景色を見たいつみが、わぁ綺麗と感嘆をあげて、ね?と言って俺の顔を見たあと、彼女は俺の顔と彼女の手もとの手帳を見比べた。手帳に何が書いてあるんだろう。書かれている文字を確認したあと、いつみはふふと笑ってからこう続けた。
「私、三井君と結婚したら、『みつい いつみ』になるね。すごいね、回文になっちゃう」
その一言で、どうぞ単純といって笑ってください、俺はいつみのことが好きになった。
俺の頭のてっぺんから足の先に付いている何千というボタンが次から次へとオフからオンに変わっていく音を聞いた。確かに聞いた。回文になっちゃうね、だって。
いつみは人が思いつかないような突拍子もないことを笑いながらさも当たり前のようにい平気でしでかす変な女だったけど、俺は人よりちょっとだけ変ないつみを陰ながら支えて行きたいと勝手ながら心に誓った。
俺といつみは席が前後ということもあり、いつみとくだらない話をするなかで時々彼女の秘密を教えて貰うことがあった。いつみは科学の矢萩が好きだそうだ。
え?あの眉毛のどこが?と聞いたら郷ひろみみたいでかっこいいとのことだった。郷ひろみのどこがかっこいいのか訊ねたら、ちょうど授業を終えて職員室に向かう矢萩が目に入ったらしく「じゃ!」と言っていつみは弾丸のように教室を飛び出して行った。廊下でいつみが矢萩にタックルしている様子が見える。
いつだっていつみはマリオブラザーズのでっかい弾丸のようにドゴーンという効果音とともに目的の場所へぶっ飛んでいってしまう。矢萩、妻子持ちなのに変な女に絡まれて可哀想だなというのが気持ちの半分、俺にその気持わけてくれないかなというのがもう半分の気持ちだった。 ああ、もっと俺の方に彼女の気持が動いてくれないかな。中学生の俺は夜な夜ないつみのことばかりを思い描いていた。
ところで君たちさ、クラスで目立つ人間のことって正直どう思う?
俺はいいと思う。面白いことを思いついたら思いつきのままに行動できるのは一種の才能だし、センスがなきゃ面白くできないから、面白いことを積極的にやってのける人間は男でも女でも、年上でも年下でも大歓迎。
俺は面白さのセンスがあんまりないから、個性だってそれほどないから、いつも誰かのモブだから、面白いことをしでかす奴は感心して眺めるし、爆発的に活動している人に便乗して面白いことをしたいし、できれば全面的にサポートしたいって思ってる。
俺にとっての「お前、面白いな」は最上級の褒め言葉だよ。
でもさ、世の中、俺みたいな考え方と正反対の考え方をしている人も大勢いることぐらいわかってる。
君たちの周りにもいるでしょ?
「出る杭は全力で打つ」タイプ。
この手のタイプは内心では目立ちたいし、面白いことしたいし、カリスマ性が欲しいけど目立つような発想できなくて、面白いことはぜんぶ二番煎じで、カリスマ性からは程遠い死ぬほどつまらない奴らに多い。
だからこそ、出る杭は全力で打つし、壇上から引き摺り下ろそうとするし、手段は選ばず汚い手を使って時にはひとを傷つけたりする。
中学時代のいつみには光るものがあって、いつみの周りにはいつだって人だかりができていた。彼女は確実にカリスマ性を持っていた。だからこそ彼女を妬む人間もいたはずだ。
16歳になった今でこそ、自分と異なる価値観を持つ人間を大勢いると理解できるけど、中学の頃はまだいつみのことが嫌いな人間が存在するなんて思わなった。
中学を卒業すると、俺と小中と同じ学校だった真人といつみはそれぞれ違う高校へ進学した。
いつみは貯めに貯めた内申点をフル活用してそこそこの都立高校に推薦入学で進学した。
いつみに推薦で行けていいなあとぼやいたら
「私ね、定期テストくらいだったら暗記でいけるけど総合的な試験はまるでダメなんだよ。根本的なことをきちんと理解できないんだ。受験しても落ちると思うから、だから推薦」
といって先日実施された旺文社のテストの結果を内緒ねと言って見せてくれた。
そんなこと言っちゃってほんとは全教科80点超えなんだろ?とちゃかしながら渡された用紙を広げると、ほとんどの点数が俺の点数を下回っていた。数学においては18点だった。俺よりはるかに点数が悪い。用紙といつみを見比べる。
「いつみ、この前の学期テスト、数学もめちゃくちゃよかったじゃん。なんで」
と訊ねると、定期テストで暗記が通用しない数学は何百回も同じ公式をつかって数字を変えて問題を解く練習をしてからテストにのぞむのだと言った。それでも時間が経つと公式そのものを忘れてしまうのだそうだ。
ほかの教科は暗記ができるように形式を自分で変えて、例えば現代国語ならばノートを参照して自身で問いと答えを作成してその全てを暗記して挑んでいるのだそうだ。
誰だ、いつみのことを天才と呼んだ奴は。
いつみは、天才型なんじゃない、完全な努力型だとそのとき俺ははっきりと理解した。
中学でも学外で遊ぶほど仲の良い関係ではなかったけど、いつかまたいつみと友達としてでいいから付き合いたいなという気持ちは持ち続けていた。
そんな俺の気持ちが叶うのは高2の冬の話だ。
その日は柔道部が顧問の都合で休部になり、バイトもなかったため少し遠回して帰った。
どうしてか、久しぶりに母校の中学を眺めたくなったんだ。思えばその直感があってこそ今に繋がる。
ワイヤレスイヤホンをつけながら母校へと向かうと、歩道で男女が言い合いをしているのが見える。イヤホンを外して近づくとそこでいつみと真人がいがみ合っていた。何やってんだよ君たち。
「君ら、お揃いで何やってんの」
道の真ん中で喧嘩?高校2年にもなってなにやってるの君たち。というか、中学卒業ぶりに会ったいつみの格好が酷くて驚いた。
全然長さの揃っていないギザギザのボブカット、埃まみれのブレザー、体育のジャージの下。なに、そういうスタイルが今のいつみのマイブームなの?
俺はポニーテールでスカートをひらり翻すいつみの方が好きだったな。なんか今のいつみはやつれちゃって少し可哀想に見える。
「なんかあったの?」
「いつみ、学校で飯島涼子にいじめられてるんだってさ」
真人がこちらをチラリと見て言った。
「南君、余計なこと言わなくていい」
「それで、飯島に矢萩先生に貰った石を捨てられて、キレて殴って退学すれすれなんだって」
「だから!言わないでって」
「飯島、覚えてるでしょ?2年の時、同じクラスにいたあの子が主犯なんだって。飯島といつみ、同じ高校行ったじゃん?飯島が彼氏をいつみが取られたって勘違いして、それでものすごい陰険ないじめにあってるらしいよ。髪の毛もそいつらに切られたんだってさ」
「涼子?」
「あーもう!南君、なんで最後まで言っちゃうんだよ、かっこ悪いなあ。そうだよ。その通りだよ。涼子の彼氏なんて取ってないのに取ったって勘違いされて、それでいまこんな感じ」
はあ、といつみがため息を吐いた。高校生にもなっていじめってあるんだ。ずいぶん幼稚だなと言ったら、なに言ってんだよいじめは高校生からが本番だよと真人に返された。そうなの?
涼子ねえ。そんな女の腐ったようなことするようなタイプだったっけ?俺は中学の頃の記憶のたどる。涼子、涼子。ああ、あの猫目の。ふと思い出したことをそのまま口に出した。
「そういえば中2の秋に、俺、涼子から告られたことある」
え?まじ?といつみと真人が声を合わせて言う。
「そうそう、なんか涼子は眼鏡男子が好きだったみたいで、だから俺のこと好きだって。その頃俺はいつみのことが好きだったから付き合えないっていって振ったけど」
いつみの方をチラチラ見ながらそう言った。いま俺、いつみにさらりと告ったんだけど、伝わってるかな?ちょっと心臓ドキドキしちゃう。顔も熱くなってきた。
「え、三井君私のこと好きだったの?っていうかその話はどうでもいいや。嘘、ねえ、私、涼子からそんな話、聞いてないんだけど」
「その話はどうでもいいのかよ」
告白して3秒で俺は振られた。
俺の中学2年からの気持ちってこんな簡単になしにされちゃうのかよ。もう少し吟味してくれよ。せめて受け止めてから振ってくれよ。
ショックを受けている俺を気にせず真人は唇を指でいじってからにやついて言う。
「やっぱりね、いつみってもともと女の敵作りやすいタイプだもんね。飯島もいつみのこと、きっと裏で嫌ってたんじゃない?」
「南君、何言ってんの、涼子はもともとは親友…」
「殴っといて親友とかどの口が言うの?虐められてるくせにまだ友達とか言うの。ほんと、調子いいよねいつみって」
普段穏やかな真人だけど、今日はかなり口調がきつい。なに?君たち中学時代そこまで仲悪くなかったよね。ていうか、真人高校入ってからもいつみに会ってたりするの。
いつみはいつみで歯をむき出して真人を威嚇している。動物じゃないんだから…。
「ちょっと、ちょっと君たちもうおしまい!はいはい、いがみ合わない。ほら、いつみ、歯をむきださない。女だろ?」
「眼鏡うるさい。女だからなによ」
「そうだ、いつみは女の無駄遣いだ。女なんかさっさとやめちまえ!」
「あぁん?やんのか男が好きな変態」
「頭の病気の奴に変態なんて言われたくないね」
「私のは病気じゃなくて脳の機能障害だっつってんでしょうが!」
いつみが真人の襟に掴みかかったところで俺が止めに入り、彼女の腕をふりほどいた。意外といつみは力が強いことに驚く。柔道部でもかなりいい線いけるんじゃないかな。ふたりはフンと鼻を鳴らして息を整えた。
「ねえ、岳。飯島に告白された時、いつみが好きだから付き合えないって言ったんだよね」
「そうだよ」
俺が頷くと真人はふう、と息を吐いた。
「たぶん、やっぱり飯島は中学の頃からいつみのことを疎ましく思っていたんだと思うよ。友達だったかもしれないけど、どこかで妬んでいたんじゃないかな。中学で岳のことを取られて、高校になってもやっぱり彼氏を取られて」
「だから、取ってないって!」
「どこまでもおめでたい頭だな。他の女に目が移った時点で男を取られたのと同じなんだよ」
冷たい視線を投げかける真人に、いつみは言い返すことができない。
「じゃあどうすりゃいいのよ。あと1年ちょいこのまま我慢するのやだよ」
「ない頭絞って考えなよ」
「だから、私、あたまおかしいからちゃんと考えられないんだって。南君教えてよ。都内イチの学校いってるんでしょ」
「今さっき都合のいい時だけ障害者ヅラすんなって言ったばっかりだよね。もう忘れたの?いつみ、これからずっとそうやって言い訳しながら生きてくつもり?ちょっとは自分の頭で考えろ。自分のためならちょっとぐらい汚く生きろよ。ずうずうしく浅ましく生きろよ。汚いことされたなら倍、汚いことで返してやれよ!」
「なぁ真人、今日なんか機嫌悪い?なんか嫌なことがあったならこれからみんなで甘いものでも食べに行こう……」
俺が言い終わらないうちに
「黙れ眼鏡」
と俺に目もくれずに真人が一蹴した。俺、眼鏡以外の個性ないのか。
「いいか、いつみよく聞いて。混乱したときはまず、自分がなにをしたいかをシンプルに考えるのが目標達成の第一歩だからね。いつみが1番したいことはなに?」
いつみがきゅっとがさがさの唇を噛んでから口を開いた。
「……。涼子に謝ってもらいたい。私のことたくさん傷つけたことをちゃんと謝ってほしい」
「次は?」
「矢萩先生にもらった石を取り戻したい」
「あとは?」
「……。涼子と仲直りしたい」
「よし。3番目は相手次第だけど、残りはできると思う」
こんなに真人を頼もしいと感じたことはない。高校に入って鍛えられたのか?それとも真人の知性を俺はまったく知らなかっただけだろうか。
窮地に追い詰められたいつみを救うための真人の作戦はこうだ。
涼子は毎週日曜日、吹奏楽部の部活のあと19時に隅田川沿いの人気のない公園で彼氏と待ち合わせをしているが、いつみが噂話で聞いた話だと涼子はわざと30分遅れて待ち合わせ場所に到着するらしい。
なぜか。30分毎回遅刻してもきちんと待っていることが確認できれば、自分のことを好きだと確信を持てるからだそうだ。俺には毎度相手の気持ちを試すような涼子の心理はまったく理解できなかった。
そこでまず待ち合わせ場所に現れた彼氏を引きつけて公園から別の場所に移動させる。いつみは陰で待ち伏せをし、遅れて登場した涼子をフルボッコにして今までことを謝罪させる。
はい、ここで目標のひとつが達成。
同じ頃、俺はいつみの学校に忍び込んで矢萩の石を探す。2メートルある正門を乗り越える必要があるが俺は運動神経だけは長けているから楽勝だろう。2階の校舎の窓から投げた小さな石だからさほど遠くには飛ばないはずなので、落下地点付近を探せばなんとかなるかもしれない。
石の発見は俺の頑張りにかなりかかっているが、もし矢萩の石を発見した暁には1日いつみが俺とデートに付き合ってくれると約束を取り付けたからなんとしても頑張りたいところだ。石が無事見つけられれば2つ目の目標達成。
ここでふと疑問に思った。涼子の彼氏をどうやって引きつけて公園から遠ざける?俺が首を傾げたら真人は流し目で笑う。
「僕が誘えば、きっと大丈夫。ちゃんと落ちるよ」
背筋がゾクリとした。なんだこのわけがわからない真人の色気は。お前に何があったんだ真人。
俺たちは概ねのプランが決まったところで真人の提案でドラッグストアに向かった。
隅田川に沿った平坦なランニングコースを俺たちはずんずんとリズミカルに進む進む進む。
向かう途中、カバンをリュックのように背負ってスキップをしていたいつみが突然、キーーン!と言いながら両手を広げ、アラレちゃんよろしく猛ダッシュし始めた。続いて真人もきゃあああおうと雄たけびを発しながら走りだす。俺も負けずにうおおおーーっと叫びながらふたりの後を追いかけた。
時刻は16時50分。夕日が赤く赤く空を焼く、目線の先には紫色に輝く東京第二電波塔。
白い息を吐いて走りながらいつみが叫ぶ、「スカイツリーって私たちが中学に入学する年に完成したんだよね!」続いて真人が肩を上下しながら、「じゃあ、スカイツリーと僕たち、同期じゃん!」と大声で返す。「建造物と同期ってなんだよそれ。おもしれえな。真人、中学の頃よりお前なんか変になってない?」と横にいる真人に息を切らせながら俺が言うと、真人は今日イチの笑顔で「ばーか!僕はいつみと比べたら全然まともだよ!」と言ってまた前を向いてさらにスピードを加速させて疾走した。
駅近くのマツキヨで黄色いカゴを手にして2階の化粧品売り場に向かった真人は宝石を目の前にした小さな女の子のように喜びが全身から溢れ出ていた。ウイッグ、ファンデーション、つけまつげ、グロス、アイブロー、チーク。手に取っては次々と買い物かごに入れていく。まるで買い物リストを事前に作っていたかのような決断力だ。買い物リスト?違う、ウイッシュリストだ。
マツキヨに着くまでの間、真人の話を聞いた。幼いころから自身の性に違和感があったこと、気づいたら同性を好きになっていたこと。誰も言えなかったこと、いつかは誰かに言いたかったこと。
ワンデーディファインはこれ、アイシャドウはこれ、アイライナーはこれとちゃっちゃと選んでいく真人に迷いはない。きっとファッション雑誌を読みあさってイメージしていたのだろう。いつか本当の自分になる日を夢見て。
こんな生き生きとした真人を俺は見たことはあっただろうか、いやない。そうか、こういうの表に出すのって勇気いるもんな。よく隠しきったよ、すごいよ。でもこれからは少なくとも俺の前では隠さなくていいよって言いたい。好きなだけ自分の好きな自分でいろよって言ってやりたい。でも言わない。言うとなんか嘘っぽくなっちゃうからな。言わなくても勘のいい真人のことだからきっと伝わると思う。
俺の部屋で姉のワンピースを着てウイッグを装着し化粧をした真人はその辺の女よりずっと女らしい姿をしていた。透き通るように白く張りのある肌、細い体。目鼻立ちのくっきりした顔立ちには長いまつげ、ぷるぷるの唇。
顔そのものだけでいえばいつみよりもはるかに真人の方が美しかった。なんかいい匂いするし。なんで?どこからいい匂いしてるの?
「すご…。南君、化けるね。これは騙されるわ…」
「いつみよりずっと僕の方が「女」の歴は長いからね」
「あーはいはい。ねえ南君ブラもっと盛ろうよ」
いつみはティッシュを丸めて真人がつけている俺の姉のブラジャーの中にぐいぐい詰めて行く。最低Eくらいは欲しいよねなんていいながらぐいぐい押し詰めて行く。あんまり下品にしたくないよ、Cぐらいでいいよと真人。じゃ、間とってDってことで。なんだよ喧嘩したり仲良くなったり本当に忙しいな君たちは。
「あ!」
俺は唐突に思いだした。どうやっていつみは涼子をぼこぼこにする気だろう。掴み合いの喧嘩ぐらいじゃ謝らないだろう涼子なら。それを伝えると確かにとふたりは頷いた。なにかいい方法はないか。いつみの特技を活かせる何か。……そうだ。
「いつみ、大外刈り教えてやるから立って」
先ほど真人に掴みかかったいつみの腕の力が思った以上に強いことを思い出した。柔道なら、俺に任せろ。
柔道はまず相手の襟を強い力で掴むことが勝利へのポイントになる。涼子がブレザーを着ているなら襟を掴みやすいだろう。いつみを立たせて、俺の襟を両手で握ってもらう。
こうやって相手の襟を両手で強く掴んだら、いつみの右足で相手の右足のひざかっくんのポイントに外から足をかける。そう、それで、振り子の力で足を手前に引くと同時に腕を引きよせて、一気に捻る!逆、そっちじゃなくて、そう!左手を手前に引っ張って、右手を押すようにして、そっちから、思いっきり、体を捻れ!
その瞬間、力を抜いた俺は見事にいつみに投げ飛ばされた。ドン!背中から床に叩きつけられる。ずれる黒ぶち眼鏡、シャツのいちばん上のボタンが飛んだ。唖然とする俺。
「一本!」と右手を上げて叫ぶ真人。えへへと照れるいつみ。
すげえ。俺、柔道で女に初めて一本取られたよ。なんか……ショックだ……。
大外刈りの練習を何十回と繰り返えし、いつみもかなりコツを掴んできたようだ。涼子を倒したらすかさずマウント取って、あとは……、あとは思う存分やっちゃいなさいよと俺は言った。
決戦は明後日。俺たちはそれぞれの場所でミッションを開始するから土壇場でいつみを手助けすることはできない。
どうか、うまくいきますように。いつみがズルをしてでもいいから、どんな汚い手を使ってでもいいから、これから彼女が前向きに、したたかに浅ましく生きられますように。
12月18日19時。
いつみの通う高校に来るのはこれが初めてだった。他校の生徒が校内に無断侵入したことが職員や警備員にばれたら俺は停学処分くらいで済むだろうか。いやいや今は失敗を考えない。
いつみから借りた男女共用の深緑色のネクタイを締める。お守り程度だけどな。師走にもなると18時を過ぎればあたりは真っ暗になる。
手元の懐中電灯ひとつで果たして矢萩の石は見つけ出せるだろうか。
いつみからは彼女の教室の場所を教えて貰い、グーグルマップの航空写真で概ねの位置を確認している。
数グラムの石であれば空気抵抗がなければまず垂直落下するだろうという真人の意見を聞き、集中的に窓の下を探すことに決めた。
今、目の前には2メートルほどの正門が立ち構えている。周りに人がいないことを確認してからふうと俺は大きく息を吸って、吐いた。手袋をつけた両手で金属の門をぎゅっと握りしめた。足掛かりになりそうな部分に左足、右足の順で足を乗せる。一回、二回と屈伸運動をする。
いち、にの、さん!と勢いをつけてからジャンプをして正門を乗り越え、敷地内に着地した。足の裏が痺れてじんじんする。いてえ。
警備員に見つからないよう警備室の前を注意深く進み、落下地点と考えられる場所まで移動した。
ライトをつけて地面を照らす。俺は四つん這いになって紫色の石がないかしらみつぶしに探していった。左の手袋を脱いで、地面に直接手をつけて手の感覚に集中し、文字通り手探りで石を探した。「科捜研の女」のモブみてえだな俺。くっそ。俺、目が悪いから良くみえないな。また目が悪くなったのか、新しいメガネ作りてえな。それにしてもない。ない。少しずつ焦りが出る。焦るな、焦るな。絶対ある。絶対見つける。絶対探しだしてやる。
いつみのためか?それもある。でも俺のためでもある。だって決めた。中学の時決めた。ちょっと頭のおかしいいつみのことを支えてやるって決めた。中学卒業してからいつみには会うことはなかったけど、高校に上がっても相対評価でも絶対評価でもいつみがダントツでおかしかった。群を抜いて変わった人間だった。飛んだり跳ねたり暴れたり叫んだりしておかしくて愛おしかった。あぶなっかしくて、突拍子もなくて、でも誰にも思いつかないことを当り前のようにしでかすいつみがやっぱり好きだと思った。できればこれからも一緒にいたいと思った。傷ついているならちゃんと元通りに直してやりたいと思った。俺にできることなんてちょっとしかないかもしれないけど何もしないよりはましだろ。
ふと地面から目線をあげると右手には花壇が並んでいる。もしかしてこっちか?俺は花壇のなかに思い切って手を突っ込んで、土に触れた。ひんやりとする。勢いよく突っ込んだときに柊の葉のとげが指に触れて傷ができた。血が滲んで痛い。痛い。じくじくする。
でもいつみはもっと痛かったはずだ。親友だと思っていた女に裏切られて、髪の毛を無理やり切られて、スカートをびりびりにされて、強姦されそうになったいつみはもっと痛かったはずだ。俺が3つ目の花壇のなかに左手を突っ込んで手のひらで探っていたら、2センチくらいの冷たい塊が指に触れた。慎重に親指と人差し指で固形物を掴んでゆっくり柊の花壇から腕を抜いた。
右手で持った懐中電灯で照らすと、そこに薄紫をした小さな石があった。指でつまんで石に光を当てて透かして見ると、まるで紫色にライトアップされた東京第二電波塔のようで、それはため息がでるほど美しかった。
「ミッション弐、コンプリート!いつみ、デートの約束忘れんなよ」
ラインのトーク画面に打ち込むと、俺は石をハンカチで丁寧に包んでからコートのポケットへしまって、ホップステップジャンプで跳ねながら正門へと向かったが、ふと思い立って足を止め、靴箱の方へと進んだ。ローファーを脱いで校舎の床に上がった。もう完全な不法侵入者だ。まあいい。捕まったらその時はその時だ。
確か、いつみは2年B組だと言っていたから2階へそのまま進む。夜の校舎は明かりがなくて不気味だけど、不思議と心は落ち着いている。いつみの教室、いつみが戦っている教室、いつみを追い詰めた教室。そう考えると校舎の窓を一枚一枚割って回りたい気分だけど、尾崎豊じゃないから俺はそんなことはしない。
2年B組のプレートのついた教室に俺は足を踏み入れる。いつみの席は探さなくてもすぐにわかった。1つの机だけ、黒マジックででかでかと「死ねメス豚」と書かれていたからだ。
きっといつみは俺たちに話した以上に酷いことをされているのだろう。
俺はいつみの椅子をひいて座る。ひんやりとした机に右頬をつけ、机の表面を撫でる。目を瞑っていつみを想う。
辛かっただろ?それでもいつみはちゃんと学校に通ってて偉いよ。俺が同じ学校にいたら助けてあげられたかな。それともうるさいメガネ、同情なんかいらねえよってキレるかな。
俺はちょっと笑ってからマジックで書かれた「メス豚」の「メ」の部分を人差し指でなぞってから優しく唇で触れた。
左手を机の中にいれると布地の感触があり、引っ張り出すとぼろぼろに切られたスカートがあった。
スカートのほこりを丁寧に払ってたたみ、俺のスクールバッグのなかにしまい込むと校舎を後にした。
こうして、真人の作戦によっていつみは涼子に詫びさせることも、矢萩の石を取り戻すことも、涼子との「仲直り」をさせることも無事成功した。 真人の知力、俺の体力、いつみの行動力の三位一体が成功を導いた。
いつみと涼子が仲直りをしたあと、都内の風景ががらりと変わったのは圧巻だった。
いつみがいじめを受けて、髪を切られ、ブレザーをぼろぼろにされ、スカートを切られたが、そのスタイルそのものが都内の女子高生に流行したのだ。
今では渋谷でも原宿でも俺たちが住む台東区でもお隣の墨田区でも大概の女はいつみと同じボロボロの格好を真似ている。
冬休み明け、玄関の外で通りかかったぼろっちい格好をした従兄弟に「その格好なに?」と聞いたら「いつみスタイルだよ知らないの?岳ちゃんだっさ」と言われた。
まさかその「いつみ」が武藤いつみのことだとは思わなかった。さすがいつみ、いつだって彼女は流行の先端にいる。
あんなに酷いことをされてなお、友情を保てる女を俺は不思議に思う。
女ってやっぱり変なの。変で、変だからやっぱり女って面白い。
いつみも真人も名前も性質も全然違う障害を抱えて生きている。だけど2人とも驚くほどに強くて、俺よりもずっとずっと強く生き抜いている。
時には悔しい思いもするだろう、歯がゆい気持ちになるだろう、批判されて叩かれて、もどかしくて叫びたくて気が狂うような気持ちにすらなるんだろうけど、「障害をもっているから大変で、だから生きていくのが辛い」という言葉をいつみからも真人からも一度も聞いたことがない。
これはただの推測なんだけど、彼らにとっての「大変」なことはもはや当たり前のことなんじゃないかなと俺は思う。
人と比べて違うから大変なのは当たり前、その上で自分のやりたいことを自分で切り開いているのがいつみ。
人と比べて違うから大変なのは当たり前、だけど周りの期待に応えるためにじっと自分を抑えて生きてきたのが真人だ。
大変さを当たり前のように持っている人間は土壇場での強さが違う。俺とは種類の異なる筋金入りのタフさを彼らは持っている。
俺は大した個性も持たない誰かのモブでしかないけれど、世の中に主役だらけじゃ世界が渋滞しちゃうだろ?
そのためには誰かがかませ犬にならなきゃいけないし、誰かが踏み台にならなきゃいけない。そうやって物語はできているから。
俺は世界がそれで面白くなるなら喜んでかませ犬になりたいし、いつの時代も世界の先導者になり得るいつみのためなら喜んで踏み台になりたいと思う。
おもしろきこともなき世を面白く、そんな世界で生きていきたいし、そんなことを大真面目に言って実行する人がいるなら、そう、いつみみたいな人間がいるならそのときは全面的にサポートしたいと思っている。
みんなで上を向いて大口開けて笑えるように生きていきたいだろ?少なくとも俺はそう思って生きていきたいんだけど、そのときに、上だけ見てつまづいちゃう奴がいるなら俺が支えて歩いて行きたいんだ。
いつみみたいにつっかえつっかえの人間を支えていくって決めた、俺はあの日しっかりと決めた。
暗くて、つまんなくて、死ぬほど辛い世の中なのはわかってる。そんな世の中だからこそ、面白おかしく全員まとめて道連れにしてくれるいつみが好きだった。
俺は俺にしかできない優しさで強さで温かさで笑いながら生きて行きたいと思ってる。
1メートル先もまともに見えない俺の世界をスキップしながら華麗に彩り鮮やかに塗り替えてくれたいつみを守って生きていこうと、「結婚したらみついいつみになっちゃうね」と言われたあの日に決めた。
いつみはなかなかこっち向いてくれないし、弾丸みたいに突っ走って行っちゃうから全然追いつかないし、いつまでも叶わない恋を夢見てるけど、俺の良さを根本的に理解してもらえるその日まで俺はいつみを待ってやる。10年後には矢萩よりいい男になって誰にも負けないくらい強く賢くなっていつみの全てを受け入れてやる。
机に向かった俺は参考書を開いて、ペンケースのファスナーを開ける。
中から半分に切った消しゴムを手のひらに取り、懐かしい、愛おしい気持ちで握りしめた。
そのあと、もうひとつ、mono消しゴムを取り出して机の上に置いた。
ふと窓の外を見ると、遠くにそびえ立つ東京第二電波塔のライトが淡い紫色から情熱の赤色に変わった。
「ルージュ、7センチヒール、僕のすべてのはじまり(南真人編)」
「「月が綺麗ですね」なんて今はまだ言わない(武藤いつみ編)」
いつみが岳ちゃんの良さに気づいてふたりが結ばれるのはずっとずっと先の未来。
それはまた、別のお話。(三谷幸喜リスペクト)