【生きのびる日記】還っていくような生き方
本当にやりたいことを想像すると、いつものところに戻る。やっぱり気持ちを感じたり、日常の景色を切り取ったりしていたい。
東成瀬村の水墨画みたいな景色からは自然の怖さを感じて心がぴんとした。自然への畏怖ってやつだと思う。畏怖を感じるほどの自然がわたしには足りていなかった。
「近くにトイレがないような変な場所にいるババヘラアイスのババは、そのへんでトイレをして、手を洗ってないはずだから、汚い。買わない方が良い」という教育をされていたのはわたしだけじゃなかったと知ったとき、妙に嬉しかった。「車の後部座席にりんごをそんな風に置いたら絶対に落ちるぞ」と思っていたら案の定落ちて、無性に笑えた。
そういうあまりにも些細で何の意味もない出来事や交流を、ただひたすら何かに投影して飾っておきたい。人間が生きているだけのただの日常が好き、偶然が交差するわけの分からない環境が好き。
床暖房が暖かかった。外はマイナス5度でも床暖房があれば部屋は寒くない。むしろ外は寒いけど中は暖かいことで、暖かさを感じられて、幸せだった。雪は心をぴんとさせる。1年のうち、数ヶ月は雪の中で心をぴんとさせないと、人間としてなりたいものになれないような気がする。地元よりも雪深いところに滞在したことで分かった大事な感覚だ。雪の中に自分を晒す期間がないと、だらんとした、張り合いのない生き物になってしまう。寒いからこそ甘くなる野菜のように、寒いからこそ起こる心身の変化があるんじゃないか。「夏の方が好き」って、適当な言葉で季節のことを喋りたくないと思った。わたしは心をぴんとさせていたい。心をぴんとさせて、いつでも本当の心を差し出せる状態でありたい。
ダム建設のために村に滞在している作業員がたくさんいることを知った。そういうざっくりした情報を共有されたあと、その先のことや個人個人の人生について勝手に想像することが好きだ。家族を養うための出稼ぎに来ている人もいるだろうし、もう死んでもいいかなって気持ちで家を持たずに各地を転々としている世捨て人みたいな人もいるだろう。わたしの知らないところで、少しの事情を持ちながら、それぞれの人生を生きている人たちがいることが景色と混ざって心に刺さってくる。ただの想像なんだけど。実際のことにはそこまで興味がない。ただちょっとした情報をもらって、想像を膨らませて、その人を動かしたり、気持ちを空想したりして、自分の中で楽しむことが好き。こんなことに何の意味もないと思いながらも、ぼーっと世界を眺めている。
語彙を増やしたい。以前は「本当は絵を描きたい」と思っていたけど、今は語彙を増やしたいと思っている。自分の頭の中にある世界線や、綺麗だと感じた情景を閉じ込めるためには絵が一番いいとは思っているけれど、ストレートに表現するよりも、ひとつ不自由さを持ちながら表現する方がわたしには合っていると、急に納得感がわいてきた。エッセイではなく、できるだけ抽象的な詩や小説として外に出したい。抽象的じゃないと、本当に語りたいことを語れない。今は本業を整えることで手一杯ではあるけれど、表現するためのセンサーや、心惹かれるものを素直に受け取るための心くらいはずっと耕していたい。忘れないように、自分の大切な感覚を持ち続ける。
わたしが大切にしたいものや興味の対象は、上手く言葉にできない。なんとなく「感覚」と呼ぶことが多いけど、厳密には意味が合っていないかもしれない。情景と、人との交流から生まれる雰囲気と、少しの事実から膨らませた想像の世界を、わたしは大切にしたいのだろう。GARNET CROWの『love lone star』の歌詞に「love lone star 輝いて見えるけど何も住まない星」というフレーズがある。星同士が離れていることや、その星の中に誰も住まないことから、孤独な星について歌っているんだろう。「輝いているけど何も住まない星」を想像したり、実際に星を眺めてみたり、浸るのが好き。
そんな感じなので、心のままに生きると、ただひたすらぼーっとしているだけの人間になってしまう。悪くないけど食べてはいけない。食べていくために社会との折り合いをつけながら生きている。ずいぶんと平気になったけど、平気になってよかったのか、本当はまだ平気じゃないのか、平気じゃないことにしていたいのか、分からない。何が平気で何が平気じゃないのだろう。平気になった自分のことを、どこかで好きじゃないなと思っているかもしれない。「成長」って言葉が似合わない場所で、どちらかといえばどんどん子供に戻りながら、「そんな大人いないよ」って思われてもいいから、自分の世界を探検していたい。忙しくなっても、暮らしが変わっても、変わらずにいたい。わたしは良くなっていったり変化を起こしたりしたいわけじゃなくて、変わらずにいたい。