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【生きのびる日記】生きのびる人、生きのびる必要がない人

あけましておめでとうございます。地方出身のわたしは、帰省するかしないかによってお正月の過ごし方が変わってくる。今年は帰省せずに、ほとんど普段通りの暮らしをしている。

年末に人と会うと「帰省するの?」という会話をしがちだが、実家のない人や帰りにくい人もいるのだから、「帰省するの?」ってそんなに軽いノリで質問することじゃない気がする。

子どものいない夫婦に対して「子どもはまだなの?」と聞くのはデリカシーがない。それはだいぶ浸透している気がするが、「帰省するの?」も場合によってはデリカシーのない質問であることを、たまに思い出す。

今日は古民家で活動した。「古民家で活動」と表現すると、田舎暮らしや古民家に憧れる人からしたら、とても楽しそうに聞こえるかもしれない。実際の活動は、朽ちた木材の運搬や裁断、捨てる準備など、たいして楽しい雰囲気ではない。地味だし、誰かや何かの処理係を担わされているような感じ。現実ってこうだよな、と実感する。楽しそうなものや華やかなものの裏には、数千の地味なタスクがあるのだ。

来春の引っ越しに伴って現在のMy畑を失うので、畑をやるには新たな土地を開墾しねばならない。それがここ。古民家の目の前に広がる粘土質で傾斜のある土地だ。粘土質では、基本的に植物が育ちにくい。根を張りにくいのだそう。米ぬか(玄米から白米に精米するときに出てくる粉)や籾殻燻炭(玄米の外側にあるかたい部分を燻したもの)などをまいて、土を柔らかくしなくては。

自然の活動は地味な作業が多い。とくにわたしなんて、動くのが好き!体力には自信あり!というタイプではなく、あくまでも思想として農的暮らしが好きだったり、パーマカルチャーっていいよねと思っているタイプなので、実際に動くと疲労感の方が勝ってしまう。頭でっかちだから、思想は定まっていても、身体がついてこない。そのことが身内をイラつかせる要因になっていると思う。残念です。(タイプロの猪俣くん風)

夕方に帰宅してからは、本を読んでいた。


書評は苦手なのでしないが、どちらも「生きのびる系の本」であることは間違いない。

『西の魔女が死んだ』には「エスケープ」「登校拒否」という言葉が出てくるし、『不完全な司書』には「生き延びる」というワードが冒頭から登場することからも分かる。

わたしは「生きのびる」をやっているのだ、あくまでも。社会の波に乗っかることや、プラスをたくさん積み上げることは、目指していないはず。生きのびることを毎日、ちゃんとやっている。そのことを自分で分かっていたい。誰かから暗に「頑張ってないね」と言われたとしても、生きのびることを頑張っていると思う。

生きのびるために頑張っている人と、生きのびるという視点が必要なかった人。この間には溝がある。生きのびることを頑張っている人は、一見「何もしていない」「頑張っていない」に見えるから。この溝を感じると、生きのびることを頑張っている側としては、何も語りたくなくなる。目の前の状況をスルーして、一刻も早く自分の持ち場に戻りたくなる。

帰りたいなぁ、どこかに。

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伊藤七 | ライター
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