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還暦は、二度目のハタチ。

2024年6月 生きとし生けるものの初夏


本連載企画の序章はこちらから 
 #coin-scope 001(序章)
 #coin-scope 002(続 序章)

踊りだ神輿だ花だの祭り三昧

 半袖の季節になると、待ってましたとばかりに活動的になる習性が、北国の人間にはある。さんざん揺られて開栓された炭酸水のように、気分の底からソワソワが湧いてくる。
 7月、なんて待てない。梅雨というほどの雨もないし、6月は夏の始まり、ていうかほぼ夏。そんなコンセンサスがあまねく浸透しているから、みんな自然と浮き足立つ。伝統行事から何とかフェスまで、夏到来を口実にした催しが大小盛んに繰り広げられる。
 北国の初夏は夏よりもナツなのだ。

 街も、緑も、風も、光の粒がまぶされたように美しいナツ。
 なのに何ということだろう。浮かれ気分を楽しんだその場所で、ゴミを捨てていく輩がいる。河川敷などアウトドアで焼肉や花火を楽しんだ後の広範囲な散乱ゴミ。公園のベンチに放置されたコンビニ弁当の残骸。けしからんことこの上ない。せっかくの季節を汚してくれるな、馬鹿者達よ。

 ゴミといえばこの季節、一気に目につき始めるのが街中で散見される“置きゴミ”だ。投げ捨てるのではなく置き捨てるから置きゴミ。あくまでも私調べ、私見立ての説ではあるが、平成後半から目立ち始め、今ではすっかり主流となった、若者特有のゴミ放棄スタイルである。
 この時期、自宅を出てから駅までの数百メートルで、いったい幾つの置きゴミを目にするだろう。
 たとえばそれは、マンションの敷地囲いの上だったり、街路樹の植込みだったり、ビルのエントランスや壁面の意匠の凹凸だったり、コインパーキングのフラップ台や精算機の上だったりする。キュービクルやポストの上も格好の置きスポットだ。駅構内への階段口付近や踊り場、手すりの上にも出現する。テイクアウトのドリンクカップ、ペットボトル、ビン、缶達がスックと立てて置いてある。単独の時と2個並んでいるのと割合は半々くらいだ。
 投げ捨てて転がっているのではなく、置かれているからある意味余計に始末が悪い。「置きましたけど何か?」の体で、お行儀よくお行儀が悪い。二人連れでおいしく飲んで、どっちがそこに置いていこうと言ったのか、もはや習慣で無意識なのか、抵抗感や罪悪感はなかったのか。
 街はテーマパークじゃない。清掃スタッフがどこからともなく回収に来てくれるとでも? まさかとは思うけど、基次郎の檸檬とかアート・インスタレーションを意識して?  片付ける方達におまかせしまーすみたいな真似しやがって。と、初夏の街を歩きながら毒づいてしまう老婆心。ハタチだけど。
 
 捨てる輩がいて、拾う人がいてくれて、いま現在で言えば街のきれいは保たれている。でも30年、40年後のこの街で、高齢者になった置きゴミ族はどんな振る舞いをしているのだろう。自走ロボットが自動回収してくれる、そんな世の中になっているのか。「ゴミを捨てるな」のマナーは果たして健在なのか。
 気になるので絶対百まで生き長らえて、この目で見届け、書いてやるぞと決意する。

 さて、気を取り直して初夏の街。母との待ち合わせ場所へと急ぐ。
 平日の昼下がりなのに人出が多い。地元の人よりそうでない人、それも外国人の方が多いようだ。思えば50を過ぎたあたりから、外国人を目にする機会が激増した。それまでの人生で見てきた外国人の総数を、50代以降は1年で見て、しかも記録は毎年更新され続けている、そんな感じだ。コロナ禍以降は中国以外のアジア人が一気に増え、サンダル履きでコンビニやショッピングセンターに滞留しているファミリーが目につくようになった。高級ブランドショップからは軽装のカップルが大きな紙袋を持って出てくる。近隣にホテルがあるドラッグストアではレジを外国人用と完全に分けている。

 デパ地下のいつものお菓子屋さんの前。案の定、母は先に着いていた。
 JRの駅を降りてから今日はタクシーで来たという。腰部脊柱管狭窄症なので常に鈍痛は抱えているようだが、杖をついたり、調子のいい日は使わなかったり、その日の体調でゆっくりゆっくり歩いている。
 街で会う時は、いつもお菓子売り場にある喫茶コーナーでブレンドを注文して30分くらい近況報告を聞くが、今日は何となく街も浮かれているし、母もナツらしい柄行のシャツを着ているので、少し離れた地下街の喫茶店まで連れて行くことにする。

 SPとして、斜め少し前に立ち、周囲を警戒しながら目的の方向へと歩みを進める。立ち止まっては母が追い着くのを待ってまた歩いてを繰り返し、ようやく店の入り口が見えるところまで来た。混んでるかも、と思い、先に自分だけ店内に入って状況を確認する。奥のテーブルが空いていますということで案内を受け、入り口に戻るとまだ母が到着していない。通路を見やると、行き交う人の流れの中で一人立ちすくみ、キョロキョロしている。
 お母さん、と大声で呼ぶ。が、聞こえていない、耳が悪いから。こっちこっち、とジェスチャーを見せる。気づかない、目も悪いから。テレビのドキュメンタリーなどでよく見る、中心人物だけフォーカスされて周囲がブレているような画の中に母がいて、こちらは必死に声を振り絞っているのに気づいてもらえない、そんなもどかしい夢の中に放り込まれたかのようだった。

 そばまで行くと、ようやく母は私に気づいて我に戻っていた。何年ぶりかで歩くその場所は知らない店ばかりになっており、目を奪われている間に方向感覚がなくなって、娘の姿も消え失せており、あっけにとられていたようだ。
 ゆっくりと奥の席まで誘導し、壁側のソファ席に座らせる。 
「こんなに人が出歩いてるんだねぇ、平日なのに若い人もいるけど、みんな働いてないのかい」と不思議がっている。
 注文したブレンドが運ばれてくると、砂糖とミルクをたっぷり入れてかき混ぜる。カップを持ち上げ、「あらーこれって紅茶のカップだよねぇ、コーヒーも紅茶も兼用にしてるんだろうか」と呟いて口をつけ、「なんだか飲みにくいわぁ」と宣っている。
 私も飲む。そう言われればそんな気もしないでもないが、店名に珈琲店と謳っているくらいなのだからそんなこともないだろう。なので、ふんふん、そうお? と聞き流しておく。
 独断や偏見の成分が多い個人的見解を聞くのは嫌いではない。母の場合、たまにギョッとする見解を披瀝してくれることがあり、それはそれで面白い。


「ドコモ」の音程で「スマホ」と言う

 母がかわいい。
 素直にそう思えるようになったのは、父が死んでからのことだ。

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