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還暦は、二度目のハタチ。
2024年10月 虚実と皮膜のDNA
私のライフワークである本連載企画についてご紹介しています
#coin-scope 001(序章)
#coin-scope 002(続 序章)
実のある暮らし
今時期は、実家に行くたび、里の幸的なお裾分けが待っている。
遠方の姉からせっせと送られてくる自家野菜や葡萄、山栗、近隣の農家から毎年頂戴しているという見事な林檎。母は母でご近所さんから自家野菜や漬物、手作りの保存食などをいただくことが多く、自身で長年産地農家から取り寄せているじゃがいも類もどっさりある。
母は、親しくしている方達にお裾分けをするのがとにかく楽しいようだ。順番に電話をかけては玄関先まで取りに来てもらっている。
90代のおひとりさまが食せる量は限られているので、できるだけ鮮度や品質が良いうちにもらってもらおうという良心のもと、100均に紙袋を買いに行き、2枚で100円のやつはすぐ破けてダメだったわということで1枚100円のを杖をつきつつ買い直しに行ったりしていて忙しい。
心を配り、お世話を焼くことがこの時期のタスクとなり、脳と心を生き生きさせることにつながっているようだ。
とは言え、他人様に物を差し上げ過ぎるのもそれはそれでまた何かと問題が生じてくるので、そこはやはり私が最多貰い手役を引き受けることとなり、行くたびに様々なブツを背負ってはひとり帰途に着くのである。
ブツはどれも基本的に重たくてゴロつくものが多い。リュックに詰めたり、丈夫な紙袋にダンボールで底板を敷いてから、よろけずに歩ける程度に調整しながら詰めていく。
帰り際、玄関の上り框でリュックを背負い、よっこらしょと立ち上がる時はいつも、舌切り雀の婆さんになった気分だ。
21世紀になってもう四分の一が過ぎようというのに、私を含め、多くの人は今、前世紀の子守姿さながらにリュックを背負って歩いている。
スマホで手が塞がれる時代になったから。災害が身近な時代になったから。多様性が受け入れられる時代になったから。そんな理由を一絡げにおんぶして。
世の中がどんなに便利になったところで、生きてゆくことはサバイバル。超速で二極化しながら縮んでゆく社会の荒野を、リュックを背負った渡世人が行き交っている。
我が家に戻り、鍋に湯を沸かして栗を茹でる。鬼皮のラクな剥き方を今年こそはマスターしようと思うが、ネットであれこれ方法を物色しているうちに飽きてきて、結局は茹でこぼして包丁で真っ二つにし、粉を吹いた実にスプーンを差し込んではせっせと口に運んでいくことになる。
毎年もらうこの山栗は「今年も佳き実がつきました。以上」的な素朴さがいい。食べやすくはないし、特別美味しいわけでもないが、品種改良を重ねた高級フルーツのような媚態を見せてこないのがいい。これが秋、これぞ秋、そんな変わらなさの中に真の実を感じる。
この栗も、気候変動でいつか採れなくなる日が来るかもしれないが、それまではこのままでいいのだ。それにしても、まな板にゴロンとのっかり、艶光りしている実のリアルさよ。
虚実の実も、現実の実も、堅実の実も、実感の実も、実。
実は、という言葉もそもそもそうだが、リアルを表現する場面にはいつも言葉の実がなっている。
実ってリアル、リアルって実のことだったのだ。そんなこんなを思いながらキッチンに立ったまま、秋の夜長をひとり味わうハタチの縄文人である。
白秋を生きるオンナ達
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