純ココアとなんにもない

ココアを飲みながらこんなことを考えました。豆乳で割ってはちみつをまぜた純ココアはどこまでが純ココアでどこからが不純ココアなのだろう。純であったはずの彼らの誇りはどこに残っているのだろう。彼らがかつて純であったことを認めてくれる第三者がいたとして、そのことはどんどん純から遠ざかっている彼らにどれほどの救いをもたらすのだろう。彼らは彼らがかつて純であったことを覚えているだろうか。純ココアではない豆乳で割ってはちみつをまぜた純ココアという矛盾の中で、彼らは永遠にうずまき続けるのだろうか。スプーンでぐるぐると回されるように。マグカップの中ですべてがまざりあった瞬間、純ココアの漸近線が限りなくゼロに近づいた点Pにおいて。そこにはもう、きっと、なんにもなくなる。なんにもない。なんにもないところになる。

なんにもないところは最高だろうなあ。ああ、なんにもないところにいきたいなあ。なんにもないところってどこにあるのだろう。勇気を出して「なんにもないところ行きの切符はありますか」とお星さまにたずねてみたら、知らん顔をされました。

◇◇◇

いちいち気付かなくてもよかったことに、いちいち気付いてしまって、そうすると自分の立っている地面がすこしずつ、まわりから崩れていって、そのスピードはゆっくりであるはずなのに、あっ、と思う間もなく、落ちて、落ちた先にはいろいろな景色があり、そこはときには新世界であり、ときには旧石器時代であり、ときにはインフレーションする宇宙であり、ときには新宿のゴミ捨て場であり、ときには母校の理科室であり、ときには時空間のゆがみによって生じたちいさなすきまであり、ときには蟻と同じ目線の草むらの中であり、ときには英国のお茶会の庭園であり、ときにはざらざらしたスケッチブックの上であり、ときには液晶の中であり、ときにはシュウソカリの壜の中であり、ときには母の胎内であり、ときには時間だけが流れつづけるがまったく生物のいない仮想原郷的空間であり、ときには病院のベッドであり、とにかく、それを繰り返していると、つかれてしまって、もうわけがわからなくなってしまって、わからないこともどうでもよくなってしまって、ありとあらゆる情報因子が、ツタのように身体中にびっしりとついていることに気がつき、きもちがわるいので、躊躇なくそれらをふるい落としてしまうと、その途端にそれがもう何だったか、すっかり忘れてしまうのです。

◇◇◇

なんにもないところへいきたい。なんにもないということ以上になにかがあるなんてことはないでしょう。切符はなかったけれど、どうやらバス停がみつかったようです。でも、待てど暮らせど、なんにもないところ行きのバスはやってきません。どうやらまだだめということらしいです。なんにもないになるにはいったい何がたりないのでしょう。お月さまにたずねようとしたけれど、恥ずかしくなって、だまって下を向いて手についたインクのしみを黙々と洗い流します。どこまでがしみでどこからが手なのだろう。どこまでが純ココアなのだろう。ふと見上げると、ガラス窓の桟でじたばたしている小さな蟻と目が合いました。あ。と思いました。蟻は蟻です。純ココアは純ココアです。純ココアは、純ココアである以上、純ココアです。なぜなら、純ココアだから。

休憩がてら飲んだココアが、わずかに南を指してくれたような、しかしかえって混沌を招いてくれたような、なんだかうまく言えませんが、そんな気分です。

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