国鉄改革と品川駅設置:葛西敬之の挑戦と戦略
1987年の国鉄分割民営化は、日本の鉄道史を大きく変えました。この改革は、7つの地域会社(JR東日本、JR西日本、JR東海など)と貨物会社に分割し、それぞれ独立採算制を導入する画期的な取り組みでした。特に、この改革の中心的役割を果たしたのが、いわゆる「国鉄改革三人組」、JR東日本の松田昌士氏、JR西日本の井手正敬氏、そしてJR東海の葛西敬之氏です。
国労と動労
国鉄時代、最大の労働組合だった国労(国鉄労働組合)は、左派的な政治色が強く、ストライキや順法闘争を繰り返していました。これにより、国鉄の経営はさらに悪化し、赤字拡大の一因とされました。一方、動力車運転士を中心とした動労(国鉄動力車労働組合)は、国労に批判的で、特定の派閥(革マル派)と連携しつつ、国労の組織力を削ぐために攻勢をかけました。
この国労と動労の対立は、国鉄分割民営化の背景において重要な役割を果たしました。特に、政府や国鉄当局は動労を利用して国労を弱体化させ、労働運動全体を分裂させることで民営化を進める土壌を整えました。結果として、国労の影響力は低下し、国鉄改革の実現を後押しする形となりました。
国鉄分割民営化は、中曽根康弘首相の「民活(民間活力導入政策)」の一環として推進されました。これは、日本専売公社(JT)、日本電信電話公社(NTT)の民営化と並ぶ大規模な改革でした。特に通信事業については、田中角栄氏が一体型運営を強く支持していたため分割されず、後年にNTT東日本・西日本として地域分社化される形で調整されました。
また、民営化の背後では、瀬島隆三氏のようなフィクサーが暗躍し、政財界や官僚機構を調整していました。葛西氏は瀬島氏の影響力を活用し、国鉄改革を進めるための交渉や調整に取り組んだとされています。
JR東海の葛西敬之とJR東日本の松田氏
葛西氏は、JR東海の収益の柱である東海道新幹線をさらに強化するため、品川駅の設置を計画しました。しかし、品川駅周辺はJR東日本の管轄にあり、既に開発が進み、新たに駅を作るスペースがない状況でした。当時JR東海の葛西氏はJR東日本の松田氏と対立していました。この難題に対し、葛西氏は「既成事実化」の戦略を採用。朝日新聞に品川駅の計画をリークし、世論を巻き込みながら計画を進めました。これにより、反対派の動きを封じつつ、JR東日本から土地を譲り受ける形で品川駅の設置を実現しました。
品川駅は、羽田空港から飛行機利用者を取り込む戦略に寄与しました。東京~大阪間のドル箱路線を強化し、新幹線利用をさらに拡大することで、航空業界との競争に勝利しました。この品川駅設置の成功は、JR東海が「新幹線1本」を徹底的に磨き上げる戦略の象徴ともいえます。
国労と動労の対立、そしてJR東日本と東海の対立は葛西敬之氏のリーダーシップと戦略がなければ、JR東海の新幹線戦略は成功しなかったかもしれません。