多少裕福な家に迎えられるのに成功しただけなのに――生まれの運とあきらめについての新約聖書批判

世の中には、お金に困っている人がたくさんいるはずだが、わたしはどうしてその反対側に引き留められるのか。それから、「苦しみは耐えられる人に与えられる試練」説が無批判に受け入れられてきたのはなぜだろうか。とてもむごい話なのに。このように教えられて恵みをあきらめるほど、カトリックの人々は無思考でいられるのか。

この「神の試練計画」が妥当ならば、わたしは貧乏に耐えられない、と神が貧乏をよそに振り分けたことになる。加えて、神は、ひまに殺されるわたしを見捨てることなく、ひまに勝つ強さをわたしに授けないといけないことにもなろう。

さて、わたしのうちは浄土真宗でありながら、宗教を1つ決めるとしたら、わたしはプロテスタントが好きだ。教えをこうして選べる以上、カトリックの言説が自分に影響するとはやっぱり思えない。

貧乏に関して、わたしは振り出しのところで失敗しなかったとはいえ、ずっとこれからも貧乏に縁遠いとは言えまい。しかし、この国でハイパーインフレが起きることもなく、預貯金を失わなければ、働く必要がなく、ひまに苦しまないといけないにしても、この成功の理由もわからず、死んでいかねばならない。出まれの運の理不尽さを誰も答えられないし、それは人間の預かり知らぬところの領域のままである。

信仰の篤い人には通じないだろうが、宗教は統治のためのシステムである。聖書も救いもファンタジー。これらは支配される者達の無批判と無思考によって成り立ってきた。宗教の外部の者に言わせるとこうなろう。一方で、人間達は、貧しい中で努力した者や、生活のために働く者が一生むくわれない世界を作ってしまった。ついでに、「苦しみは耐えられる人に与えられる試練」説という鞭まで添えて。
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『新約聖書』コリント人への手紙 (第一) 10章 13節
あなたがたの会った試錬で、世の常でないものはない。神は真実である。あなたがたを耐えられないような試錬に会わせることはないばかりか、試錬と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えて下さるのである。
https://bit.ly/3oJ5OQz

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10h
ありがたいことです。目に留めてくださった あなたの心にも喜びを。