無気力という病
寝る時間が近くなると、決まって出現する心境。「今日もつまんない1日だったな」と。
冴えない日というのは、死から遠いところにある。ときどき、死にそうなときには、「生きたい!」と乞い願うくせに、事なきを得ると逆戻り。間違っても「呼吸したい」などと思わない。それでもこの甲斐性なしは生き延びる。つまんない、つまんないを口癖に。
習い事の先生に訊かれたこと。唐突だった。
「何をしているときが楽しいの?」
この先生とは出会って3か月。アクセサリー作りとフラワーアレンジメントの自宅サロンにわたしは通ってきた。その日で6回目。先生には他にも教えられる何かがあって、営業したいに違いない。わたしの無気力を案じてくれるはずはない。
2秒後に答えた。
「車の運転ですかね」
先月わたしは、
「最近の外出じゃ、ここに来るのが一番楽しみです!」
と伝えて先生を喜ばせたばかりだった。だから、なぜ運転と口走ったかわからない。たしかに関節の病気になるまでは、運転ほど好きなことはなかった。
わたしは何をすれば楽しいかわからない。何が好きで、何をしたいのか。ないものはないので、一向に思い浮かばない。
無気力の頂点。趣味なし、生き甲斐もなし。つまり目的なし。きっと共感を得られまい。
多くの人「何のために生きてるの!?」
10h「知りませんよ」
わたしの弟だけは、「生きる意味ないよ、そんなんじゃ! どうすんのそういう人生で!」と真顔になった。あれから10年経つ。
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これを書く途中で、心に刺さる文章に出会った。
「『私を見て!』アピールには、実にうんざりするものがあります。」
これを紹介していたnote:
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わたしのやりたいのは、「『私を見て!』アピール」なんじゃないのか。そうではない(と思いたい)。目立ちたかったことは過去一度もない。わたしは汚い群衆の1人で、際立つ魅力・才能・有用性がない。
それなのにわたしの行為は、目立とうとする人の発信方法と酷似しているのではないか。そんな疑念が頭をよぎる。(「目立つこと」について深く考えました。この続きは、きのうアップしたページに書きました。) 今、誰もわたしを知らず、知りたがらず、わたしは生きて死んでいくのだ。
それが何だというのだろう。失敗をしてもわたしは以前ほど落ち込まなくなった。自分はそのくらいの人間だと知ったからである。
すると無気力は加速する。わたしには何を楽しむ価値もない。素晴らしいことは遠くにあって、誰かのものであればよい。疎外感もないし、これで満足。わたしは何もしなくていいので、まさしく何もしていない。
多くの人「家で何してるの!?」
10h「寝たり起きたりしています」
「わたしの楽しいこと」が売っていたら買いたい。