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月組バウ"Golden Dead Schiele"感想②意固地の奔放/きみは果たして何者たるか

やっと本編とからめた感想を書きだします。
今回は、主演の彩海せらさんと、彼女が演じた、本作の「エゴン・シーレ」という人物像の話。

ちがうということ

ネタばれなしの本作観賞をおすすめしたい記事でも書きましたが、そもそもエゴン・シーレという画家は、聖人君子などという言葉からはあまりにほど遠い場所にある人間です。
女性関係にだらしなく、掘れば掘るほどスキャンダラス。作中のエピソードはかなり、全体的に史実と照らし合わせれば好意的で健全な方向の解釈がされている。
一方、旧態然とした画壇から離れて新しい表現法に取り組もうとする向上心、探究心、市井からの礼賛を勝ち取りたい野心もあり…。

ゆえにこの公演が発表されたときの、TLのざわつきようはなかなかに面白いものでした。
こんな人物を、あのあみちゃんがやるの!?という。
彼女自身の「こういうお役が回ってくるとは思っていなかった」であったり、初日・千秋楽での組長さんの「これまでは明るい役が多かった」「お稽古のときから抜群の安定感」といった言葉が示すように、エゴン・シーレと「あみちゃん」には、ずいぶんな距離が開いている。
彼女は、実直で、まじめでひたむきで、なにごとにも賢明に懸命な、たましいのかたちがとてもかわいいひとだ。
少なくともここ4年くらい彼女を見てきた私が抱いている印象は、そういうものだ。
そんな「彩海せら」という表現者にこの過去の人物をあてるとき、人間性を疑いたくなる猥雑な部分はかなり差し引いて控えめに、「画家というアイデンティティを確立したいと、誰からかけられる心も二の次に足掻き藻掻く、ままならぬ不確定性の人生」を主題としたのは大正解だと思う。
彩海せらさんとエゴン・シーレ。
ふたりの「距離」があるからこそ、丁寧に役と手をつないでゆきたいあみちゃんだからこそ、エゴンと、あみちゃんが渾然一体となったとき、導き出される不思議な魅力がある。
エゴンにはない、あみちゃんにしかないもの、逆にエゴンにしかない、あみちゃん本人にはないものが、歪みをつくり、不可思議な多数の曲線をつくり、音律の響きになって、舞台を、空間を満たす。

「自分本位」というドミノ倒し

私の好きな小説に「どんな大きな事件だって、結局は人の私情のドミノ倒しだ」という一節がある(※成人向けオンラインBL小説なので、苦手な方は検索されませんよう)。
何度か本作を見て、そのあと、私の中では、改めてこの一節が印象深く、ずっとくるくると回転している。私情のドミノ倒し、本作におけるエゴン・シーレの全てにぴったりな言葉だと思うのだ。
それこそ彼に関しては、ドミノ壊し、と、言ってしまってもいいのかもしれない。

彼はとても勝手で、奔放だ。
奔放で、自分本位であることに、ひどく意固地になっている。
他者からの愛を、承認を求めながら、相手から示されるかたちが自らの望むそれ「以外」であることを受け入れられない。自尊心の高さ、確たる根拠はない自信の強さゆえに彼の視野は狭く、他者からの緩やかな厚意を、路傍の石ころみたいに無下に感情のままに粗雑に蹴っ飛ばす。
彼を取り巻く人々は、それぞれのやり方でそっと丁寧に彼のまわりに、それぞれのドミノを並べてくれる。さまざまに、多角的に彼への感情をもって、何度も、何度も、状況もそうしてくれる相手も変わってゆく。
けれどその都度、彼は「そんな模様は僕は望んでない!」と叫んで、並べられたドミノをぶち壊して倒してしまうのだ。
しかもそうやって勝手にぶち壊してしまって、呆れて周りに誰もいなくなってしまって、ひとりにまっくらの孤独に落ちてしまうと、嘆くのだ。
これが「自分の選択の失敗」だという自覚は、うっすらとは捨てられずに持ち続けているのだ。

なんという不安定な人だろう。
なんという、ただの自業自得のおろかな人間なのだろう。
それでも。

それでも彼女は歌う

そんな尊大で勝手で奔放の意固地の人間を、彩海せらさんは、本当に丁寧に緻密に演じている。
突撃レポートで「エゴンとして歌うのが難しい」と言っていたあみちゃん。いったいどれほどの練習を重ねたのだろう歌声は常につややかで響きが心地よく、内包する歌詞までもをあまりにクリアに、観客までとどけ、沁みこませる。高音から低音まで、感情の揺れ以外のゆらぎは一切なく、数多くの楽曲を、さまざまな場面で歌いきる。
そう、あみちゃんの歌の力がとにかく全編にわたって本当にすさまじいのだ。迫りくる/すべてを満たす。相手を包み、呼応し、拒絶する。録音音源のなか、限られた時間のうちがわで、決して伴奏が全てのリズムを刻んではくれない状況も多くある楽曲の大群を、彼女は高く低く、そのときの感情とともに、うねりをあげて率いて連ねていく。
過去の彼女であれば、絶対にできなかっただろうさまざまな技術が今回の劇中にはほんとうにたくさん詰め込まれていて、それを感じるたびにやたらに感慨深くなってしまった。ほんとうに、どれだけ、どんな密度のお稽古をしたらこんな、こんな、こんなにも…。

見るたび体感するたびに毎回その凄まじさにしみじみしてしまうのは、正直な話、あみちゃんが、こんなに早く、こんなに素晴らしい歌を魅せつけてくれるようになるなんて、過去の私が思っていなかったからだ。
もちろんそうなってほしいとは思っていたし、応援もしていたけれど。それこそギャツビーくらいのところまで、私は自分の感覚として、彩海せらさんを「歌える」と評するのがしっくり来ていなかった。
それは彼女の(特に高音の)当てづらさであったりふとした瞬間の声のザラつきであったり、ビブラートの幅が広すぎて音を見失ったり男役と声を合わせるのがあまり得意ではなさそうに見えたり。存在としての「小ささ」、劇場という大空間を4次元的に己の声で支配し操り、そうすることで歌詞に込めた心情を容赦なく客席側にぶち込む。そんなたぐいの力の不足であったりが理由だった。
当時はまだ新人公演も卒業していなかった若手に何を望んでいるんだと言われそうな話なんですが、なにせ私、望海風斗の芝居歌に心臓を掴まれて宝塚に足を踏み入れた人間なもので…。
彼女ひとりで舞台を満たし、同時に中心として立つことでカンパニー全体の力を感情のままに何倍にも増幅する。そうすることで、凄まじいほどに音楽が鳴り、うねる、爆風として吹きめぐる。
そんな劇場の空気を体感してしまった人間としては、誰かもう一度あの感覚を私に与えてほしい、あの素晴らしい音響設計の大きな劇場で、そのまんなかで、私に体感させてほしいと、願ってしまって仕方がないのです。
仕方がなかった中で、ここ1年ほどのあみちゃんが。
彩海せらさんが、あまりに、鮮やかに変化を遂げてきていて。
本当に、嬉しくて仕方がないのです。深みと安定を増して、声量も豊かに音域も当たり前のように、上にも下にも広がっていることが。
ただ声を出す、音を鳴らすというそれだけには決してならず、日本語としてのフレージング、歌詞の持つことばとしての意味、心情表現としての音楽を、その全身で全霊をもって、常に紡ぎ出してくれていることが。

劇中、彩海せらのエゴンは、「僕は何者だ」と、まっくらの舞台の上に一人ピンスポットを浴びながら激唱する。
劇場中の空気を掌握して、びりびりとふるわせる。
彼女こそ、いったい何者なのだろう。周囲で盛り上げるコーラスも、目を引く派手な演出も一切のない、歌う一人とくらやみのスポットライト。ただそれだけのどこまでもシンプルな、故に、確かに歌で訴う力がなければ絶対にもたせられない場面を、あまりにも彼女は迫真に、苦悩と絶望に満ちて客席へと訴えきる。
いつだってこの場面、新鮮におののいてしまっていた。
あなたこそ何者なの、彩海せら。

そして躍る

ここで終わらせないので、さらにこちらが目を回す彩海せら。
彼女は歌うだけじゃない。芝居するだけじゃない。彩海せらのエゴンは、とんでもなくあちこちでさまざま、踊る。
フィナーレまで含めて本当に最後の最後まで、歌い、踊り、舞台上で躍動する。

彼女の手足の使い方、鞭のしなるようなしなやかさがとても好きで、指先まで細やかに神経の通ったキメとタメには、彼女がいまも目標とする偉大なる先達の姿が、色濃くよぎってしまったりもして。
特にわかりやすいのが2幕はじまりの夜会の場面で、エゴンの所作に「男役・彩海せら」がにじむ瞬間の、ぞっとくる感覚が毎回本当にたまらなかった。
そんなところでも、彼女が地道にしっかりとこれまで積み重ねてきたものが見える…。
彼女の丁寧な真摯さが、粗雑な横暴を色濃く内包するエゴンの、存在のひだを深くする。

結局は彼女こそが最後までエゴンに手を差し伸べ続けるから、そしてエゴンも、その手を取り続けるから。
だからわれわれは、最後までこの劇を見続ける。あみちゃん本人だけではどうしてもここまで表出はできないだろう奔放の、自分本位の直情の熱が噴き出し、誰もを揺らしていく。
そうやって揺らしてしまえるから、彼は天才なのだろう。
そうやって揺らし続けていけるから、彼女は、確かに表現者なのだろう。
芸術という果てのない高みへ向けて、手をつないで、走って行ける関係であり続けられたのだろう。


……結局本編についてはあんまり(全然)触れられない。
次からはひたすらに「好き」の場面を並べて連ねてみようと思います。


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