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挑戦の波紋

 サンライズカップ。

 その名前は、静かに私の心に波紋を広げた。

 ケンゾーさんの「波の向こう側を見てみたらどうだ?」という言葉が、何度も頭の中で反芻される。

 怪我で一度は諦めかけたサーフィンの世界。

 閉ざされていた扉が、再び開き始めた。

 それからの私は、文字通り寝食を忘れてサーフィンに打ち込んだ。

 早朝、まだ星が瞬く暗いうちからビーチクルーザーを漕ぎ出す。

 夜の帳が下り、潮風が火照った肌を優しく撫でる。

 遠くから聞こえる波の音だけが、私を海へと導く。

 海に着くと、東の空がゆっくりと茜色に染まり始め、やがて力強い太陽が顔を出す。

 その神々しい光景は、まさにサンライズカップの名にふさわしく、私の心を奮い立たせた。

 波に乗る回数が増えるにつれ、ケンゾーさんから教わることも深みを増していった。

「波はな、生き物なんだ。よく見て、感じて、そして敬意を払うんだ」

 ケンゾーさんの言葉は、単なる技術論を超え、自然との調和、人生の哲学を教えてくれているようだった。

 彼は波のうねり方、風向き、潮の流れなど、長年の経験から培われた知識を惜しみなく教えてくれた。

 時には厳しい言葉もあったが、それは私への期待の表れだと分かっていた。

 ある日のこと、ケンゾーさんは私のライディングを見て、満足げに頷いた。

「お前、最近、本当にスムースになってきたな。波との一体感が出てきた。特にターンの時の体の使い方が良くなった。前は力任せだったが、今は波の力を利用している。それがスムースってことだ」

 その言葉は、怪我で自信を失っていた私にとって、何よりも嬉しい褒め言葉だった。

 再び波に乗る喜び、そして成長を実感させてくれる、かけがえのない言葉だった。

 そんなある日、海上がりに砂浜で休憩していると、一人の女性が近づいてきた。

 日焼けした肌、健康的な笑顔、そして何よりも、海を愛する者のオーラを纏っていた。

 彼女は、近くの大学に通うマナさんというらしい。

 海洋生物学を専攻しており、この日は波の観測に来ていたそうだ。

「素敵なライディングですね」と声をかけられ、私は少し照れながらも、嬉しさを隠せなかった。

 マナさんとは、波の話、海の話、そしてお互いの夢について語り合った。

 彼女の知的好奇心旺盛な瞳と、海への深い愛情に、私は強く惹かれた。

 サンライズカップのエントリーが始まった。

 迷いはなかった。

 マナさんの応援も背に受け、私はすぐにエントリー用紙を受け取り、必要事項を記入した。

 用紙を提出する時、少しだけ手が震えた。

 それは、新たな挑戦への緊張と、失いかけていた情熱が再び燃え上がったことへの喜び、そして、マナさんの前で良いところを見せたいという、ほんの少しの期待が入り混じった感情だった。

 大会当日。

 会場は、興奮と熱気に包まれた巨大な祭りのようだった。

 色とりどりのテントが砂浜を彩り、音楽が波の音と混ざり合って響き渡る。

 屋台からは美味しそうな匂いが漂い、観客の歓声が絶え間なく聞こえてくる。

 他の出場者たちを見ると、皆、鍛え上げられた肉体を持ち、日焼けした肌は精悍さを物語っていた。

 その中で、私は少しだけ不安を感じた。

 本当に、こんな自分がこの舞台に立っていいのだろうか?

 しかし、マナさんが送ってくれた応援メッセージを思い出し、勇気を奮い立たせた。

 自分の出番が近づいてきた。

 波打ち際でボードを持ち、深呼吸をする。

 波の音、足裏に感じる砂の感触、鼻腔をくすぐる潮の香り。

 全てが、私を海へと誘う。

 私はパドリングを始め、沖へと向かった。

 海に出ると、波はいつもより大きく、力強く感じた。

 まるで、私を試しているようだ。

 他の出場者たちも、果敢に波に挑んでいる。

 私は自分の順番を待ち、押し寄せる波を見つめていた。

 そして、ついにその波が来た。

 押し寄せる波に合わせ、全身全霊でパドリングをする。

 背中にぐっと押される感覚。

 ボードに飛び乗り、体を起こす。

 波の斜面を滑り降りる。

 風が顔を叩き、水しぶきが舞い上がる。

 あの感覚が蘇る。

 波と一体になる、あの言葉では言い表せない、宇宙と交信するような神聖な感覚。

 これまで練習してきた全てを出し切る。

 スムースなターン、力強いカットバック。

 波の力を最大限に利用し、自由自在にボードを操る。

 結果は、予選敗退だった。

 しかし、不思議と落胆はなかった。

 出し切った、という清々しい思いが胸を満たしていた。

 それ以上に、この大会を通して、私は多くのことを得た。

 ケンゾーさんをはじめとする地元のサーファーたちとの絆、波に乗る喜び、そして、マナさんとの出会い。

 夕焼け空の下、マナさんが砂浜で待っていてくれた。

「ナイスライドだったよ!」といつもの明るい笑顔で声をかけられ、私は心から嬉しかった。

 しかし、彼女の瞳の奥に、いつもと違う何かを感じたのは気のせいだろうか。

 大会後、ケンゾーさんが私に言った。

「結果は残念だったが、お前のライディングは、以前とは全く別物だった。波に乗ることを心から楽しんでいるのが伝わってきた。大切なのは、諦めないこと、そして、波に乗ることを楽しむことだ。お前はそれを思い出させてくれた」

 その言葉は、私の心に深く響いた。

 ケンゾーさんと別れ、マナさんと二人で夕焼け空の下、海を見つめていた。

 波の音が、静かに砂浜に打ち寄せる。

 沈黙が少しの間続いた後、マナさんが口を開いた。

「ねえ、実は…」彼女は少し言い淀み、遠くの水平線を見つめた。

「私、この夏が終わったら、留学することにしたんだ。ずっと前から考えていたんだけど…」

 その言葉は、夕焼けの空に一瞬だけ現れて消えた流れ星のようだった。

 静かに、しかし確実に、私の心に小さな穴を開けた。

 留学。

 それは、彼女が以前話していた、海洋生物学の研究を深めるための夢だった。

 応援したい気持ちと、彼女が遠くに行ってしまう寂しさが、同時に押し寄せてきた。

「そうか…おめでとう」

 精一杯の笑顔でそう言うのがやっとだった。

 心の中では、色々な感情が渦巻いていた。

 彼女の夢を応援したい。

 でも、この海で、彼女と分かち合った時間が、もうすぐ終わってしまう。

 この夕焼けも、この波の音も、彼女と一緒には感じられなくなる。

「ありがとう」

 マナさんは少し寂しそうな、でも決意を秘めた目で私を見た。

「留学が終わったら、またこの海に戻ってくるよ。その時は、もっと成長した姿を見せられるように、私も頑張る」

「ああ、待ってるよ」

 そう答えるのが精一杯だった。

 本当は、一緒にこの海で波に乗っていたかった。

 もっと色々な話をしたかった。

 でも、彼女の夢を応援したい気持ちは、それ以上に強かった。

 夕焼けは、空と海を赤く染め上げ、やがて夜の帳が降りてくる。

 波の音が、いつもより少しだけ寂しく聞こえた。

 サンライズカップは終わった。

 そして、私とマナさんの、この海での特別な時間も、終わりを迎えようとしていた。

 しかし、私の波乗りは終わらない。

 この海で、もっと自分を磨きたい。

 もっと大きな波に乗りたい。

 そして、いつか、あの波の向こう側を見てみたい。

 たとえ、マナさんがいなくても。

 この海は、これからも私に色々なことを教えてくれるだろう。

 寂しさを抱えながらも、私はそう信じていた。

 次の波は、また私をどこへ連れて行くのだろうか。

 そして、この海は、私にどんな出会いと別れをもたらしてくれるのだろうか。

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