風のやむところで【1】
いつも通りの朝が来る。眠れようと眠れまいと、どんな夢を見た夜であっても明けてみれば、いつもと何も変わらない日常がある、結衣はずっとそう思って信じていた。何も変わらない、朝。
安らぎや平和というものは音もなく存在していて、気がつけば傍にあるものだと思っていた。それがどんなに自分にとって大切なものなのかに気付かないで。
愛しさに終わりが来るなんて知らなかった。
いつもと違う朝が来てしまう。何か悪い夢でも見ているような気がする現実。そこには何もない。ただ、絶望と空虚がそこに佇んでいるだけで、色のついていない透明な景色は結衣を取り巻く。そこから出ようとしても、どこまでも続くその景色は、もう変わらなかった。
ぼんやりとした、触れることの出来ない現実はまるでフィルターがかかっているように霞んで、それが真実だということを、結衣はしばらくの間、飲み込めないままだった。
夢は何処かで捻じ曲がった。そして残ったのはたったひとつの絶望した現実だけだった。
希望というものがあるとするならば、結衣はまだそれがどういった形をしているのか、その目に映したことがなかった。それでも、人の運命なんていつだって気紛れだ。どこからか、全く気にならない場所から訪れたその希望は結衣の絶望と空虚を飲み込んだ。
それに気付くまで、結衣は何も見えないと思っていたのに。
今、この場にある救いに手を伸ばしてみれば、いつの間にか変わっている目の前の景色に色がついていることを知る。それは多分、結衣が知っているよりももっと綺麗な色合いで。
あのとき永遠だと思っていた時間には限りがあった。そうやって失われていくものたちの姿を記憶に刻み込んでいかなければならない。美しいものたちを、ずっと。
繊細な時期である今の記憶を、きっと忘れることはないだろうけれど。
ここまで抱え込んできた全ての救いを大切にしまおうと思った、それが結衣の思いだった。
「北海道?」
結衣はまるで初めてその単語を聞いたように、そのまま聞き返した。爽やかな風が吹く、西武デパートの屋上からの眺めはいつもどおりの景色だった。空は高くて、薄い少しの雲だけが流れていた。
「うん、そう。北海道。」
良介はフェンスに背も垂れたまま、結衣の風に吹かれる長い髪を見つめていた。
「こんな中途半端な時期に?どうして北海道なんて…。」
結衣がそう聞くと良介は言った。
「さあ?会社の決めることだからね。色々と会社の都合があるんだろう。」
「だからって…良介さんにだって良介さんの都合があるのに。」
それからしばらく、ふたりは黙っていた。秋空が晴れ渡っている日だった。もうすぐ暮れようとしている空は、ほんの少し陽が西に傾いていた。日曜日の夕方、家族連れの笑い声が聞こえてきていた。それは楽しそうな平和な暮らしの音だった。
「まあ…まだ正式に決まった訳じゃないからね。詳しいことが分かり次第、また教えるから。」
良介がそう言うと、結衣は黙って頷いた。ふたりの間を風が吹きぬけた。
「もう1年か。早いもんだよな。」
1年前のこの季節にも、同じ風が吹いていたな、と結衣は思っていた。1年後にこんな状況が自分を取り囲んでいるなんて予想もしていなかった。それは良介も同じだった。
「ねえ、良介さん。」
ふと、結衣が遠くの空を眺めながら口を開いた。
「なに?」
結衣は良介の方に振り向いて
「私たちって、間違ってるの?」
と聞いた。こんなことを聞いても何にもならないことは結衣も分かっていた。それでも結衣は確かめてみたかった、直接、良介の口から言われる言葉で。良介は静かに結衣の肩に手を置いて笑って言った。
「そうだとしても、関係ない。」
結衣はその声にじっと聞き入っていた。
「愛している思いを正せるものなんて、ないんだからさ。」
そう言って良介は結衣の額に優しくキスをする。そして結衣はホッとする、この時間が間違いなく現実のものだということに。優しくて愛しいこの時間が結衣は好きだった。何よりも。
遠くの空が黄昏ていくのをふたりは黙って見ていた。
「行こうか。」
良介は結衣の肩に手を回した。
「うん。」
そして、暮れていく秋空を置いてふたりはそこから去って行く。優しい風が吹いていた。
<to be continued>