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風の吹くままに
<2>
―岡田さん―
「引き篭もってちゃ駄目だなぁ、中村さん。」
僕がホールの新聞を見ようとしていたときに、後ろに座っていた岡田さんが話しかけてきた。僕は岡田さんの隣に座った。今朝、長谷川さんが言っていたことを思い出して、
「岡田さん、この前の長谷川さんとのケンカ…。」
と言いかけると岡田さんは僕の言葉を片手で遮った。
「長谷川さんは駄目だ、あれは全くもっておかしい。訳の分からないことを言うばかりだよ。この前のケンカは長谷川さんがね、俺のベッドの上にある孫の写真を勝手に床に叩きつけたんだよ。それで俺はね、頭にきちまって。」
岡田さんはため息をついた。
「長谷川さんはタバコの支給が禁止されてるからね、それで余計頭がおかしくなってるのさ。病院もねえ、うまいこと病人にストレスを溜めさせないようにしてもらいたいんだけど。とばっちり喰うのは俺たちなんだから。」
「長谷川さんって、何でタバコの支給が禁止されてるんですか?」
「俺も詳しくは知らないけどねぇ、タバコの火で誰かに火傷負わせたとか何とか。」
「そうなんですか。」
「中村さんもさ、長谷川さんには気をつけたほうがいいよ。あの人、おかしいからさ。俺みたいに恨み買ったら面倒だよ。」
そう言って岡田さんは自分の部屋のあるほうに去っていった。
―no title―
誰かとの会話。ここでの人との会話というものを、僕の中では三段階に分類することにしている。第一段階がナースとの正常な会話、第二段階が通常の会話が可能な入院患者、第三段階が意志の疎通の不可能な患者との形だけの会話。長谷川さんとの会話は説明するまでもなく第三段階だ。僕はここに入院してくるまでに、意志の疎通が不可能な人間との関わりは出来るだけ避けるように勤めてきた。会話をしているうちに、自分まで段々とおかしくなっていくような気がしてならなかったからだ。こちらがどんなに物事の筋立てをしようと話しても、相手は無関係に自分の世界の言葉で自分の意思を話し続けるだけだ。まるで噛み合わない。しかし、いざここに入院して生活を始めてみると、「自分は正常だ」という概念は全て何の価値もない、無意味だということが分かった。ここは所謂、社会生活をする場所ではない。「頭がおかしい」と思われる人間の集客場だ。世の中は、少しでも相手を「頭がおかしい、狂っている」とでも言おうものならば、差別だなんだと捲くし立てて人権の尊重を掲げ挙げる。でも、現実は違う。意思の疎通の不可能な人間を社会は認めない。寧ろ隔離する。その為の病院がある。そして、何年も、何十年もの歳月を、この狭い閉鎖空間で暮らす人々が実際にここに居る。社会の目の届かないところで。
―ヒロ君―
午後の2時、3時頃になるとホールに人は少なくなる。みんな昼食後というのもあり自室で昼寝する人が多い。僕はそんな午後にホールに出て、窓の外の空に雲が流れている様子を見ることが習慣になっていた。時間の流れを確認する為に。
4畳ほどの畳スペースに足を投げ出して窓の外を眺めていると、
「ナカムラちゃん、ナカムラちゃん。」
と感情のこもっていない呼び声が聞こえた。振り向くとヒロ君がスリッパを両手に持って裸足で歩いて来た。
「ヒロ君。元気?」
「ナカムラちゃん、元気そうだよね。あのさ、カップラーメンのお皿ってある?」
そう言ってヒロ君はキョロキョロと周りを見渡していた。
「カップラーメンのお皿?」
「そう。今日はゴミ箱になくてさ、ナカムラちゃん、昔、僕にくれたじゃない。」
「ああ…ごめん、持ってないよ。他の人に聞いてみてくれないかな?」
「分かった。」
ヒロ君はくるりと後ろを向いて、裸足のまま去って行った。窓の外を見てみると嫌味なくらい晴れていた。本当に、世の中は動いているんだろうか。ここに居ると何もかもが現実じゃない気がしてならない。隔離された、場所。
僕はタバコを取りに自分の部屋に戻った。そして、ため息をつく。
「しまったな…。」
タバコはなかった。部屋の見える場所に置きっ放しにしてしまった僕のミスだった。誰かに持って行かれたんだろう。長谷川さんが頭に思い浮かんだが、タバコを禁止されている患者は多い。こんなことは日常茶飯事だ。犯人を特定するのは無理だろう。タバコの支給は朝の7時にナースステーションでされる。その時を逃すと次の朝まで貰うことは出来ない。念の為、喫煙所に行ってみようと僕は部屋を出た。
途中で通路が水浸しになっていて、僕は危うく滑って転ぶところだった。水の出所は、ヒロ君だった。ヒロ君は水のみ場の水道の水をスリッパの中に入れて、部屋と行ったり来たりしていた。僕はしばらくその様子を見ていた。適当に運んでいるようで、よく見ると左右のスリッパを交互に順番に使っている。何かヒロ君にしか分からない法則があるのかもしれない。
「あら!駄目じゃないの!!」
通りかかったナースがヒロ君の様子を見て声を上げた。ヒロ君は気にせず、まだスリッパに水を入れている。他のナースも駆けつけ、ヒロ君のその行動を静かに中止させた。突っ立っていた僕の後ろにいつの間にか居た岡田さんが、
「ヒロはなぁ、水依存症だからなぁ。」
と言ってまた部屋に戻って行った。
<to be continued>