このまま世界が終わればいいのに【4】
文月のアパートに着いた。
「文月、着いたよ。」
と声をかけると文月は不機嫌そうに眼を覚ました。
「あれ…もう着いたの?っていうか私いつの間にか寝てた…。」
「もう2時過ぎてる。帰ってすぐ寝な。」
「寄っていかないの?」
文月は寝ている間に少し乱れた髪の毛を手櫛で直しながら僕を見ていた。こうしているとただの18歳の女の子だ。まだ18年しか生きていないのに、僕にも勝るくらいに色々なことが人生で起こっただろう。その中での愛情に対しては、文月は誰よりも敏感で、必要以上に求めてくる。
「あのさ文月…君は今18歳だ。で、僕は今31歳だろ。」
「うん、まあそうだけど…?」
訳がわからず、きょとんとしている文月の髪に触ると真っすぐに肩まで伸びてすぐに指の隙間に落ちる。この子がこれから先、何かしら満たされない感情を抱き続けるのかもしれないと思うと、それだけで僕は自分が全くの役不足なんじゃないかと不安になる。文月の求めるものに、僕はちゃんと答えることが出来ているんだろうか。
「何ていうか、僕と文月の年齢差に関して、僕のほうが大人であるべきなのは分かっているけど、逆にそれが支障になって僕が君の欲しい答えを出せていなかったら申し訳ないと思ったんだよ。」
「ん~?」
文月はよく分からない、という顔をして首を捻った。
「だから…13歳の年の差がネックになることもあるのかなって事だよ。」
自分でも何て説明下手なんだろうと、最近では一番この時に実感した。自分が説明下手で言葉足らずなことは分かっているものの、伝えたい事が伝わらないというのはどうしてこんなにももどかしいんだろう。すると、文月がその答えをはっきりと言ってくれた。
「そんなのたまたまのタイミングで奈良皆さんが私より13年早く生まれただけでしょ。年齢ってそんなに関係ある?お互いに不自由感じたら問題かもしれないけど、奈良皆さんと私の間には特に年齢が原因の支障なんて何もないと思うけど。」
嫌なことは嫌で、いらないものはいらないと、はっきり言う文月らしい答えだったと思う。呆然とその答えを聞いていると文月は、
「こんな何もかもがごちゃ混ぜの世界で、人間の歳がどうやら言うなんて、全くのナンセンスじゃない?」
そういって子供のように笑った。
携帯のアラーム音が鳴る夢を見ていた。どうにかして手を伸ばして、アラーム音を消すために携帯を探してもどこにも見つからない夢。
僕は何故か足元のおぼつかない地面を必死に抜けようとするけれど、なかなかその場を抜けることができない。そうしているうちに携帯のアラーム音はひっきりなしに鳴る。永遠に続くんじゃないかと絶望した瞬間、僕は目を開いた。
夢が覚めてみると僕は布団の中にいて、携帯のアラーム音は続いていた。頭を起こすと枕のすぐ隣にある文月の携帯が、ずっとアラーム音を鳴らしている。
僕はアラームを切るとそのまま携帯に表示された時間を確認した。昼の11時だった。
僕の隣に狭そうに寝ている文月はまだ熟睡している。まるで寒い中、お互いの体温で温まっているように文月は僕にぴったりとくっついていた。
文月を起こさないようにと思いながら静かに身体を起こすと、文月は窓から入る日の光に眩しそうに反応して薄目を開けた。
「あれ…今何時…?」
そういって目を擦りながら体を起こそうとする文月に、僕は
「ちょっと待った。」
と言って自分にかかっていた布団を文月の頭から被せた。
「は?何?どういう意味?」
素っ頓狂な声で被せられた布団から顔を出す文月だったが、僕はすぐにベッドから抜け出して素早くカーテンを閉めた。文月のアパートの部屋は2階だが、万が一、今の状態を見られたとしたら僕は構わないが文月が困るだろう。僕たちはふたりとも全裸だったからだ。
「カーテンなんて気にしなくていいのに。」
そう言って文月は布団を抱えたまままだベッドの中にいる。
「万が一、誰かが見てるかもしれないだろ。僕の裸なんて見られても構わないけど、文月の裸は駄目だ。」
「別に、そんなに気にしないけど。」
「君が良くても僕が良くない。自分の恋人の裸を見られて喜ぶ男なんて相当どうかしてるとしか思えない。」
そんな僕の言葉を聞いて、文月は
「ふふーん。」
と妙な声を出してニヤニヤした。
「何?なんかおかしなこと言った?」
「ううん、奈良皆さんにしては珍しく私のことを他人に与えたくないような独占欲を感じること言うなあって。」
「別に珍しくないだろ。いや、珍しいか…何にしても早く服を着な。」
飴と鞭という言葉がある。普段は厳しいことを言いつつ、たまに優しいことを言う。僕が文月にいつも口うるさく、ああしろこうしろと言う中で、たまにこんな風に恋人らしい言葉を口にすると文月は過剰なくらいに喜ぶ。こういうことを飴と鞭という意味と捉えるのが正しいかどうかは分からないけれど、文月が喜ぶのならば僕ももう少し普段から文月に対して恋人らしいことを言うべきなのか…。それは僕の性格上の問題もあるし、意識しなくてはならないことを実際に実行に移すというのは、案外難しい。
文月がやっと服を着たところで、僕は自分と文月のぶんのコーヒーを淹れる。文月のアパートの部屋は1Kの8畳間。ひとり暮らし用の部屋なので8畳の広さだと文月と僕とふたりいるだけで何となく窮屈に感じる。そもそも部屋にひとりきりでいる前提で作ってあるのだから、もうひとり加わるだけで狭く感じるのは当たり前だ。そうなると当然キッチンも狭い。家の中はそれなりに生活感があって散らかってはいるものの、キッチンは手つかずのままと言ってもいいくらいに汚れてもいないし、置いてあるものも極端に少ない。まるで昨日完成したのかと思うくらいに使用感はゼロだった。
お湯を沸かすためのヤカンやコーヒーを淹れるためのカップも、全て僕が買ってきた。何ひとつ揃っていない状態を、文月は何の不自由も感じないという。最近の若者はみんなこんな感じなのかと、僕はジェネレーションギャップを実感する。
「何もかもはコンビニで済むんだよ。生活をどのくらい簡略化出来るかで、人間の能力って差が出ると思う。」
そんな風に真面目な顔をして言っていた文月も、僕と過ごす時間が長くなるにつれて若干その簡略化が緩んできた気もする。それは果たして良い影響なのか、それとも悪い影響なのか、どちらなのかは僕には分からない。
「ねえ、奈良皆さん。ちょっと聞きたいんだけど。」
文月は僕の淹れたコーヒーを熱そうにすすりながら、改まって聞いてきた。
「何?」
「奈良皆さんは、夢と現実の区別ってどうやってつけてる?」
そんな突然の文月の質問に、僕は少し考えてから、
「どういう意味?」
と答えた。文月は何の脈絡もない質問をよくする。つい最近も
「多様性っていうけど女性のほうが我がままじゃない?世の中では旦那への文句は際限なくあるのに、妻への文句は認められないでしょ。そんなのって多様性とは言わないと思うんだけど。」
と言って、そこから3時間ほど多様性と女性優勢な世の中について話し続けた。結局、結論は出なかったものの文月の中では納得のいく会話が出来たようだ。そんな風な会話が果たして文月にとって実りあることなのかどうかは分からないけれど、僕としては文月と話すそんな会話はそれほど心地悪いことではない。むしろ、そんな文月の抱く疑問は僕にとっては新鮮であって、あまり18歳が抱く疑問でもない気がする。そういう意味では文月はやはりどことなく世の中にいる平均的な18歳とは若干ズレているのかもしれない。
そして今、文月にされた質問もまた、僕にとっては新鮮であり興味深いものだ。夢と現実の区別…。
「どういう意味?」と返した僕に、文月は真顔で答えた。
「そのままの意味だよ。」
そう言われても僕にはいまいちピンと来なかった。
「もっと具体的に言ってもらわないと、質問の意味が明確にならないんだけど。」
「だから、何を持ってそれが現実か夢なのか確信するかって意味。例えば感覚。味覚、痛覚。暑いとか寒いとか。」
「んー…一番は痛覚じゃないか?よく頬をつねって痛ければ現実、っていうパターンが多いし。」
僕がそう言うと文月はひと言、
「身体的痛覚。」
と言った。
「身体的痛覚?」
「そう。精神的痛覚は夢でもあるでしょ。とっても悲しい夢を見て夢の中で胸が痛んだり。」
「ああ…うん、まあね。」
「そもそも、夢の中で『これって夢かな?』って自覚出来ないことのほうが普通だと思う。だからその区別をつけようと思っている時点で、ほとんどが現実なんだよ。でもたまに、あまりのことに『これが夢だったらな…』って思うことがあるでしょ。でも大抵が現実。結局は夢と現実の区別って言っても全ては現実なんだってこと。」
「うんまあ…分からないでもないけど。」
文月はぬるくなったコーヒーを一気に飲み干して、
「そうなるとさ。」
と僕のほうに身を乗り出してから言った。
「夢と現実の区別がつかなくなった人間って一番怖いと思わない?現実を、夢だって思い込んだら。」
現実を夢だと思い込んだら…確かに、現実が夢だという自覚をしたとすると、『どうせ夢なんだから好き勝手自由にしてしまおう』と思ってしまうかもしれない。そうなったとしたら『どうせ夢だ』と思う人間は確かに怖い。何をしでかすか、分からないという意味で。
「ちょっと話、逸れた。昨日寝るときにさ、身体的痛覚と精神的痛覚って、一体どちらがダメージ残るかを考えてたの。やっぱり身体的な痛覚のほうが辛いよ。私は何でもズケズケと相手に言うほうだし、それもあってズケズケ言われることが多いの。だけど、あんまり精神的痛覚は感じない。その代わり身体的な痛覚はかなりのダメージでくるんだよね。なるべく口に出さないようにしてるけど、妙なおじさんサラリーマンにぞんざいに扱われて痛い目見たときとか、その場じゃ弱音は吐かないけど一戦終わって帰り道でグッタリするもん。」
「それはそれで問題だと思うけどね。だとしたら、今は身体的痛覚はあまりないってことだろ?」
「は?何で?」
「何でって…見ず知らずの妙なおじさんサラリーマンにぞんざいに扱われることがなくなったんだし。」
真顔になった文月は何やら考えてから、
「確かに。的を得たね、正解。」
と言って満足そうに笑った。
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