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風の吹くままに

<1>

―no title―

そこは狭い世界だった。
あってないような規則を守り、予定調和な無意味な常識を取り去って、誰よりも自分が正しいと思っている。祈りの言葉なんて忘れてしまった僕たちは、今日も意味なんてない無意味な時間をやり過ごさないとならなかった。この暮らしが当然のものにならないように。当たり前の暮らしだなんて思わないように。正気を保たなくてはならなかった。
僕が喫煙所でタバコを吸いながら、ぼんやりと考え事をしているとき、何を考えていたかと言えば、別に大したことではない。今日は1日、どうやって時間を潰していけばいいか。そんなことを考えても無意味なことは分かっていたけれど、こんなことを考えなければここで時間を過ごしていくことは出来ない。タバコ1本を吸うのに約4分25秒を費やすんだな、と無意識に僕は時計を見て時間を計っていた。24時間のうちの、4分と25秒。僕はほんの数分の暇を潰したことになる。だからと言って何も変わりはしない。
目の前に見える景色が変わることは在り得ない、僕はそこにただ黙って存在しているだけだった。

―長谷川さん―

「なぁ、中村さん。後生だから、頼むよ!1本!」
名前を呼ばれて現実に目を向ける。目の前には灰皿の向こう側に長谷川さんが申し訳なさそうに僕に話しかけていた。
「駄目ですよ、この前も僕はかなり怒られたんですよ。また同じことをしたら、今度は僕がタバコの支給がなくなるし。」
僕がそう言うと長谷川さんはニッコリと笑い、声を上げた。
「中村さん!大丈夫だよ!もしそうなったら、俺が支給されるときに、あげるから、1本!なぁ?!」
喫煙所に長谷川さんの声が響いた。何人かの人間がこちらに振り返り、そして興味なさそうにまた視線をそらす。長谷川さんは笑顔のまま僕の手元のタバコを見つめている。だけど、目は笑っていないままだ。
「そう言われても…。」
「なぁ?!隣の部屋の岡田さんかね?あの人が俺のベッドの横のタンスの中にひとり、子供を忍ばせてねぇ!夜中になると引き出しの中からソーッと顔だけ出してこっちを見てんのさ!それで俺を見張ってた。隠れてるんだよ!」
長谷川さんはそう言いながら、履いていたスリッパを脱いで床に座り込んだ。
「その子供に俺のタバコ、盗ませてねぇ?!だから言ったんだ、お前は子供に泥棒させるのかってねぇ?!そしたら岡田さんは俺に殴りかかってくるんだよ、訳の分からないこと言って!だから揉み合いになって大騒ぎだからねぇ?!」
長谷川さんは大声で僕にそう言うと、空笑いをした。僕は、
「じゃあ、この前のケンカ騒ぎはそれが理由だったんですか?」
と聞いてみた。
「そうそう!だからねぇ?!」
長谷川さんは体勢を入れ替えると僕に向かって土下座をした。
「頼みますよ!1本だけねぇ?!後生だから?!」
頭を床に擦りつけて空笑いしながら長谷川さんは言う。僕は困ってしまい周囲を見回した。まだ朝早い時間だった。
「とにかく、駄目ですよ。他の人に頼んでみてください。」
僕はそう言って土下座する長谷川さんを後にした。喫煙所から出るときに振り向くと、長谷川さんはまだ土下座して頭を床に擦り付けながら空笑いをして声をあげていた。

―パジャマ姿の女性―

何もない1日がまた始まってしまったんだな、と僕は自分の部屋でベッドに寝転んで天井を見つめていた。ここの暮らしは時間の流れがあまりにも遅すぎる。だけど、ここの暮らしで唯一正しいことは時間が刻まれる早さだけだ。そのとき、ドアがコンコンとノックされる音が聞こえた。起き上がって見て見るとパジャマ姿の女性がこちらをぼんやりと虚ろな目つきで見つめていた。僕はその女性の元まで行って、
「どうしたんですか?」
と声をかけた。よく見ると女性は下半身は下着のままだった。
「…自分の家が分からなくて。ここは男性の住むところでしょうか?」
乱れた髪の女性は僕を通り越した向こう側を見つめながらそう言った。
「そうですよ。誰か呼びましょうか?」
僕がそう言うと女性はやっと僕がいることに気付いたように僕を見ると
「ああ、そうですか。よろしくお願いします。」
と言って頭を下げた。僕は自分のベッドにあるナースコールを押した。
『どうしましたかぁ?』
「自分の部屋が分からないという女性が男性病棟に居るのですが…。」
『はぁい、今行きますね。』
その後女性の元に戻ろうとすると、もうそこには女性は居なかった。

<to be continued>

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