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風の吹くままに

<3>

―田口さん―

「今日で19年目だ。」
夕食後に喫煙所でタバコを吸う僕の隣で、田口さんが煙を吐きながらため息混じりに言った。
「そうなんですか?」
僕がそう聞くと田口さんはもう一度大きなため息をついた。
「19年もここにいるとなぁ、全く訳が分からなくなっちまう。入ったときはまだ俺も36歳だった。まさかこの歳になるまでこんなところにぶち込まれているとは思わなかったよ。中村さん、あんた歳いくつだっけ?」
「僕は今年で29歳です。」
「あぁ、まだ若いな。夢も希望もこれからだねぇ。早く出してもらわなきゃいけないよ。帰る場所があるならね。ずっとここに閉じ込められているとね、何の為に生きてるのかさっぱり分からないよ。ただ歳を喰うだけで、毎日に意味なんてない。常に狂った連中に囲まれて、生きる意味ってなんなのかね。」
「田口さんは、帰る場所がないってことですか…?」
「そういうことだ。俺がここに居るってことが、家族の安心に繋がっているからねぇ。居ないことが安心なんだよ。あぁ、いっそのこと他の連中みたいに頭がおかしくなっちまえば楽なのにな。中村さん、本田さんって分かるかい?」
「本田さん?」
「毎日ホールで、日本地図広げて楽しそうにしてる人だよ。分かる?」
「あぁ、分かりますよ。前に話したことあります。退院したらやることあるって言ってました。」
「うん。本田さんは退院したら車の免許を取る目標があるんだよ。だから毎日地図広げてイメージしてるんだ。ドライブをする。でもね、それは多分無理だ。」
「何でですか?」
田口さんはタバコの火を消して言った。
「本田さんは15年、ここに入院してる。入院当初から退院したら車の免許を取るんだ、って地図を眺めてるんだ。15年、毎日毎日同じことの繰り返しでね、明日退院するって信じてるんだ。本田さんには時間の流れが止まって感じるんだろうよ。おかしくなっちまえばああやって苦痛を感じることなく生きていける。なぁ、中村さん。正常で在り得ない奇跡を待つのと、狂っちまって死ぬまでここに居るのと、あんただったらどっちを選ぶ?」
 
―順子さん―

ホールで新聞を広げて読んでいると、順子さんが一緒に覗き込んできた。僕は順子さんに
「読みます?」
と新聞をすすめた。順子さんは笑顔で新聞を受け取ると、
「今日あたり、HIROSHIからのメッセージが載ってる頃だと思って。」
と言ってテレビ番組表のページをめくった。
「HIROSHIって今、ツアー中ですよね?全国の。」
僕がそう聞くと順子さんは真剣な目で新聞の隅を凝視しながら
「そう。だからね、電話しても通じないし、ここに私宛てのメッセージを載せてくれてるはずなの。何時のメッセージだったかしら…。」
と言って番組の名前を指で追っていく。
「私、もうすぐ退院するの。だってここにいたらHIROSHIが私に会いに来ることが出来ないんだもの。彼ってスターだからね?」
「でも順子さん、旦那さんがいましたよね?」
僕がそう言うと順子さんは少し微笑んで言った。
「旦那とはもう別れる話になってるの。悪いとは思うけど、HIROSHIと私の関係は崩せないから。この前、新聞に私宛にHIROSHIから『結婚しよう。』ってメッセージが載ってたの。そうなったらもう…ねぇ?」
「そうなんですか。色々大変ですね、順子さんも。」
「仕方ないのよ。HIROSHIが歌手でいるうちはそういう大変な関係になってしまうのって。でも私たちは愛し合ってるし。このくらいの障害なら…。」
そういった順子さんは急に新聞の文字を食い入るように見た。
「これよ…HIROSHIからのメッセージが…。」
順子さんが指をさす場所を僕も覗き込んだ。そこには午後4時からのドラマの再放送のタイトル『誘惑』という文字があった。順子さんは両手を震わせながら、段々と汗をかき始めてブツブツと呟いた。
「…駄目よ…外の女の誘惑なんて!HIROSHIが騙される…殺さなきゃ、殺してしまわなきゃ!」
順子さんは新聞を床に叩きつけると病棟の出口のあるドアまで髪を振り乱しながら走っていった。ホールに居た人々が順子さんを見た。僕は新聞を拾い上げて、番組表にある『誘惑』という文字を何となく目にしていた。出口のほうから、順子さんの絶叫と何人かのナースの声が聞こえた。僕の傍にいた患者が、
「あぁ、また順子さん。保護室だな、あの人も狂ってるよ。本当に。」
と言った。ホールに順子さんのHIROSHIを呼ぶ泣き声が響き渡っていた。

<to be continued>

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