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失くした現実

—3—

記憶がないということ自体に何ら問題もないならば、無理に思い出そうとする必要はないし、思い出に固執する必要もない。今まで自分にかかってきた記憶を失った患者に対して、僕はいつもそう診断してきた。人間は自分が残してきた足跡が見当たらないと不安になる。今まで自分がどんな風に、どんな道を歩いて来たのかが目に映らないということは、何も過去に確かなものがないということだからだ。
それでも、現実がうまくまとまってひとつになっているならば。現在に映る姿は結果なのだから、気をやむことはない。大丈夫、全ては順調だ。仕事に対して、僕がどんな形でここまで来たのかは覚えていないけれど何も問題はない。医者としての役割は何事もなくこなしていたし、患者からの信頼も掴んでいた。家庭にしても、ツグミと僕の間に何かの問題なんて何もなかった。お互いの愛情は深かったし、毎日の暮らしに僕もツグミも不安など何ひとつないのだから。仕事も家庭も、何もかもうまくいっている。ただ僕の記憶がないということだけだった。思い出が、ないだけだ。
毎日は何事もなく過ぎていった。

夕暮れが窓の外の景色を赤く染める頃、僕の仕事は終わろうとしていた。その日、最後の患者を迎えようと手にしたカルテに記された名前を見て、僕は一瞬、動きが止まった。「澤山香織」。
その名前は僕の気持ちを不安にさせようとしていた。そして、前回彼女が診察に訪れたときに口にしていた言葉を思い出した。「太陽が逆に沈んでいく夢」という言葉を。診察室のドアをノックする音が聞こえた。僕が「どうぞ」と言うと、静かにドアが開いて澤山香織が俯いたまま入ってきた。彼女は黙って、僕の正面の椅子に腰掛けた。僕は、緊張していた。それを悟られまいと、何事もない口調で話しかけた。
「先週、お薬のほうを出しましたが。その後、如何ですか?」
澤山香織は、
「…現実が、現実だったと分かっただけで…」
そう言いかけて、ゆっくりと僕に顔を向けた。
「先生が今、見ているのが…本当の私なのだとしたら、それはおかしいんです…。」
ぼんやりと話す彼女の視線は、強かった。辻褄の合わない会話ではあったけれど、僕には何かしらの意味があるのだと思えた。
「この時間が、現実ではないという意味ですか?」
僕がそう聞くと、澤山香織は静かに頷いた。
「私にとっては現実だけれど、先生にとっては違うのかもしれません…あの夢を見るまで、それは分からないけれど…」
「太陽が逆に沈む夢、ですか?」
「…その夢は、絶望しか与えません、私にとっての現実は」
彼女はそう言ってから、しばらく黙ったあとに言った。
「…もう何も、なくなってしまったんです。」

澤山香織の訃報を知ったのは、次の日の朝だった。いつもどおりに病院に出勤すると、院長から澤山香織が前日の夜に駅のホームから飛び降りて特急電車に轢かれたという報告を聞いた。院長は、こういうこともある、あまり気にすることのないように、と慰めの言葉を僕にかけた。澤山香織が死んだということに、医者としての僕にとって大きなショックを与えられたのは勿論のことだった。澤山香織の診察は2回しかしなかったが、その2回が果たして適切な診断を出来ていたかどうか。彼女に対しての思いは、医者としては当然ながら、何かひとりの人間として気に掛かるものだった。
何かを、澤山香織は僕ひとりに対して、訴えていた気がしてならない。

彼女にとって現実でも、僕にとっては違う。あの夢を見るまでは。
太陽が逆に沈む夢。絶望しか与えない夢。
そして、澤山香織にとっての現実は、何もなくなってしまっていた。

それから一ヶ月が過ぎようとする頃、僕の中では澤山香織の件は穏やかに過去の出来事になろうとしていた。当たり前の毎日が訪れる、そんな暮らしが僕の心を救ってくれていた。特別なもののない日常でも、それが何よりの幸福なんだと言われているように。

すっかりと肌寒い日が続いていた。僕はいつも通りに仕事を終えて、病院から帰宅した。部屋に入ると、台所の電気だけがついていて何も言わずにテーブルに両肘をついて座っているツグミが居た。
「ただいま。電気もつけないで、何かあった?」
僕がそう声をかけると、ツグミは無言で僕のことを見上げた。
「ツグミ?」
ツグミはそのまま、僕にしがみついた。何があったのか分からない僕は、
「ツグミ、どうかした?」
とその細い身体を抱きしめて問いかけた。そして、ツグミは小声で言った。
「…出来たの。」
「え?」
次の瞬間、ツグミは顔を上げた。そして満面の笑みで僕に言った。
「出来たの、子供。」
突然の言葉に、僕は一瞬、意味を理解するのに時間がかかった。ツグミはそんな僕に構わずに抱きついた。
「尚!どうしよう、すごく嬉しい!」
子供が出来たということは、僕は父親になるということだった。その現実がやっと飲み込めた僕は、
「それは…僕も嬉しい。」
と、少々間抜けな返事をした。
「尚?」
「いや、ごめん。なんか…全然実感が沸かなくて。本当なんだよな?」
ツグミは僕に抱きついたまま言った。
「本当だよ、尚。本当に…夢じゃないよ。」

僕とツグミが確かに愛し合っているという証のようだな、と僕は思った。それが今まで不確かだった訳じゃない。ただ、そうやってひとつの命として魂が宿ったということが、何よりもかけがえのない大切なものなのだと、僕は改めて思った。だから、もしもそこに思い出も記憶もなかったとしても―。
幸せという言葉が示してくれる、奇跡なのかもしれない。

僕らはそのとき、誰よりも幸福だったのだから。

<to be continued>

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