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感性的でありたいけど

こんばんは。3日目です。遅くなりました。

今日は、私が最近よく考えることについてシェアしたいと思います。

感情と理性


私は自分のことを理性的な人間である(あるべき)と思っていますが、最近は自分がそこまで理性的な人間だとは思わなくなりました。とはいえ、頭でいろんなことを考えたりそれをもとに行動することを大切にしているので、「意識的に」理性的になろうとしているということに気付いた、という方が正しいような感じがします。
そしてさらには、自分はもしかしたら感情的なところも出していった方がなにかとやりやすいんじゃないかな〜とも思います。
でも、それよりも頻繁に、感情に振り回される人間でいたいわけでもないな、とも思うわけです。(未だに私のモットーは「冷静さは正義」です…。天才ではないので、どんなことをしていてもやっぱり頭で考えないと成長できません…。)

りせい-てき【理性的】
[形動]本能や感情に動かされず、冷静に理性の判断に従うさま。 「常に 理性的 な人」「 理性的 に考える」⇔感情的。
かんじょう‐てき【感情的】

〘形動〙
① 感情に関するさま。感情の面であるさま。
② 理性を失って感情にかたよるさま。感情に訴えるさま。感情をそのまま表わして興奮するさま。

この定義をみると、私にとっての「理性的」という言葉の反対語が「感情的」ではないのでは?と思います。これは正しくないのかもしれないけど、私にとってはそう思うのが妥当だ、という認識です。

私が求める理想像は

多分、私がありたい「感情に身を任せるが利己的ではない」という状態を表すには、【感性】という言葉が似合うようです。

感性
感性とは,基本的には包括的・直感的に行なわれる心的活動およびその能力,とくに,印象評価や創造・表現,論理によらない思考や判断(感性知)などにかかわる認知過程を指す。したがって,美しさや快さなどの認知や評価はもとより,味覚や嗅覚のように感情を伴う感覚,質感・速度感・広がり感といった知覚的印象の認知も,感性の範疇に含まれる。

もはや、感性は誰のためでもない。あわよくば役に立ったらいいな〜といった感じでしょうか。

私は割と、こういった非論理的な根拠からくる美しさだったり、その美しさを大切にしたり、育てたりすることを大事にするタイプなんだと思います。
数字や物事を成し遂げるためのプロセスなど、一般的な正攻法があるものに対してはシビアに考えるようになりましたが、それ以外のところでは、「なんとなく」を結構尊重しますし、「なんとなく」という理由の時ほど何かを選ぶときに感じる「かけがえないときめき」(や嫌な予感)がプラスにはたらくことってない気がします。気のせいかもしれませんが。

「なんとなく」は現時点での「集大成」

最近、難しいこともいろいろやらせてもらえる環境にいて、プロセスやその中でできるだけ多くのことを得ることが私にとってのテーマになっています。

そして現在の環境のおかげで、ネガティブな私でも、「せっかくこの場にいるので、私も何かを与えなくちゃもったいない!」と思うたまに自信過剰な時もあります。そんな自分にしてくれる周りの方々には感謝しかありません。
最近私がやっていること、詳しいことは長くなるので書きませんが、簡単に言うと「発信する」ための準備です。20代前半の私という人間が、それほど長くないこれまでの人生の中で目で見たり耳で聞いたりしてきた全てのことをダシにして、文章や本、あらゆる媒体に携わったり携わらなかったりしています。(こんなふうに書くととてもすごいことをしている人のように見えますが、そんなこともないです。笑)
その時の私の発言は「なんとなく」に基づいたギリギリ言語化できるくらいのことばかりですが、案外それがウケたり、かなりの時間をかけてブラッシュアップしてもらえるようなところまで行ったり、たま〜に最終的に採用されたりします。

意見をしたときに「それいいね!なんでそんなこと思いつくの!若いからか??!」といってもらえることがたまにありますが、これは若さや私の単純な性格、それとこれまでの21年間の多くの経験の相乗効果によって生まれていると確信しています。
全ての出来事が今の私を作っていて、毎秒アップデートされていきます。今と同じことは2度と考えられないかもしれないけれど、頭で考えたこと、感じたことを全て詰め込んでどんどん深みのある人間になっていきたいです。
そして、それを失敗だったらどうしようなどと理性で自分がクヨクヨと悩むことなく、自分の感性を信じて発信できる自信がつきますように。努力します。


毎日どんどん長くなっています。
今日は自分でも書いていてよくわからなくなってきましたが、都度編集してベストを目指します!
明日も書きます。

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