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海のむこうは
「人間の感情に良いも悪いもない」
友人の口からそんな言葉がこぼれ出て、はっとした。
確かにそうかもしれない。良いも悪いもない。筈。
人間は不自然に生きる。
思うがまま、自然にはなかなか生きていかれない。
自然に生きる事を過ぎると、都合が悪くなることがあるから。
あらゆる感情が内で巻き起こるが、持つべきでない感情、持つべき感情の二つに大別され、前者は、あたかも、そんなものもってございやせん、てな風にきつく縛って奥に仕舞い込んでおかなければならない。
奥にしまい込んでいる内に埃が被りその姿はやがて見えなくなる。
人間は、心の内を盆栽のように整えて、自らをつくりあげることで生きながらえているのかもしれない。
人間は、海や川にはなれない。
噴水であるなと思う
人間は木にはなれない
盆栽であるなと思う
僕は生まれてから、今に至るまで人に対して殺意を抱いた覚えはない。と思っている。(みんなはどうだろう)
これも幼い頃から整えられたからなのであろうか。
インターネットやテレビジョンに映し出される、人によって起こった悲惨な出来事や人の道外れたと謂われる行為を目にすると(こういったことは幸いなことに自分の目の前で起こることはほとんどない)鬱するし、その酷さに目を背けたくなる。何故そんな事を、、とも思う。
しかし事を起こしたのは自分と同じ人間で、自分もだいたい同じ機能を備えている。
埃が被って見えないだけで奥底に眠っているのではないかと疑ぐる。そして、確かに、そこにあるものだということ微かに認める。
認めなければならないような気もする。
犯した者に人でなしと糾弾する人々もまたこわい。
ぼくが単に臆病者なだけかもしれないけれど。
心の真ん中に何があるのか。
なんだかわからなくなってしまったくらい、生きた気がする。
あらゆるものに蓋をして、布をかけて。
それをかき分けて見つけるのがあまりに難儀で億劫だ。
それでも見つめなくちゃならない、
気がしてならない。