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にんげん少なめにいっぱい

休みの日には街に人がまことに沢山いる。
そびえ立つ百貨店は大勢吸い込んで大勢吐き出す。向こうで腰掛けている老人、騒ぐ学生さんの群れに信号待ちしている人たち、あちらこちらへ、ちりぢりに歩く人間。その誰も彼も僕にとって知らない人でお喋りしたことない人たちばかり。
こうも同じ種族がたくさんいるとなると、悲しきかな集団の中での自己の置き所みたいなものを考えるようになってしまう。それぞれが人生の君主であることはゆるぎのないことなんだろうが生きているとそんな当然な事させえも揺らいでしまうことが多々ある。
以前大勢の人で賑わう都会の街を友達と歩いた時に「こんなにも人がいるんだったら自分がいなくてもいいんじゃないか」と漏らしてしまったことがあった。
別段、鬱状態にあったわけでもなく悲観的に捉えたのではない。それはむしろ楽観的な心持ちから発せられた軽い小言だったのだが言うべきでなかったなと反省している。僕はそういった類いの話を友達とあーでもないこーでもないと話すことが割と好きなのだが、そうでない人の方が大抵だろうから。そんな事言われたって迷惑千万。困るのである。

「自分は天命を持ってして生まれてきたのである。全うしなければならぬ」そう思える人はおそらくごくごく僅かで、そんな人たちが宗教家や政治家なるのかもしれない。
白樺派の小説家の武者小路実篤は、小さな頃にアラブの王様になる。官僚や政治家では収まらないと考えていたようだ。(彼は華族出身らしく祖父は岩倉具視使節団に同行した大臣。そういった家庭環境が大いに影響しているとは思うけど)しかし実際に彼は小説家として大成して「新しき村」を設立し、その構想が毛沢東に影響あたえたというのだから、とんでもないなと思う。小さな頃に膨大な夢を抱くのは誰にでもあることで、それは歳をとるにつれて削られ磨かれ、洗われて、大小異なる人それぞれ形取られていくことになる。原石のままずっと持っていられることなんて殆どないと言って良い。

「自分を中心に世界が回っている」そう考えてずっとは生きていかれない。ならば自分は何処にいるのだろう?世界の端っこなのか、真ん中から少しずれたところにいるのか。それとも少し浮いているのか、益々よくわからなくなる。将棋で自分がどの駒を担当しているかという意識は人それぞれだと思うのだ。
自分を王と捉えている人もいれば、王までいかぬとも金、或いは飛車角を担っているであろうと考える人、いやいや私なんぞ滅相もない、歩兵でございますと慎ましく考える人もいることだろう。
しかし僕が目を瞑ってしまえばこの世は真っ暗闇になりくさって存在できなくなるし耳を塞げば音楽は存在できないというのも事実で僕が死ねば世界諸共朽ちるといってもいいだろう。はて、、。

ひと昔前にKY(空気が読めない)という地獄からの囁きのような文句が流行したように、日本人は良くも悪くも集団の中で自分がどう振る舞うべきなのかを殊更に気にしてしまう民族であるらしく自身を省みても思うところが多々ある。しかし群れで生きる以上他人の心を窺い知ることはどうしても必要な事であるし自分が1人きりで生きることは不可能なのは明白なので、だからこそ自分の置き場所に困ってしまうのだ。僕が口走ってしまった「こんなにも人がいるんだから自分がいなくてもよい」というのも真実であってどんな傑物な偉人であっても、人ひとり死んだところで世界が滅亡したためしがないし、人類は続いてゆくのだ。
こう考えてしまう事自体人間のエゴ、おごりなような気もする。ミーイズム(自己中心的な考え方で生きようとする思想)という考え方が70年代に若者の一部で流行したようだけれどこういった考え方には波バイオリズムのようなものがあるんじゃないかしらんと思う。
個人を尊重、個性尊重しなければならぬという時代の後に、いやいやそれではいけない。周りに気を配り、気を揉みなさいなという時代が来る、その後にそれでは神経が疲れちゃうからやっぱり自分第一にしようねという気風が高まりその後、やっぱり人間1人じゃ生きてけんよ、、、という風に。風車のようにぐるぐるまわるんじゃないか。

調べてみると人間は、植物、菌類、海洋生物等を含めた世界の総生物量の0.01%に過ぎないらしい。もう何が何だか良くわらなくなってきた。ぐう。








追記

そんなことより、、。
今日少し遠いところの大きな商店街にある漬物屋さんで、らっきょうとすぐきの漬物を買いました。つまみとするかご飯のおかずとするかは迷いどころですな。

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