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そこそこトントン

ぎこちなくタップを踏む包丁は白い電灯の光を跳ね返しぎらつき、そんな様はまるで威張り散らしいるかのよう。いつまでたっても包丁さばきは下手っぴの、そこそこの腕前のままで、碌にレシピも見ずに適当に拵える料理はいつまでたっても上達はしない。まあ誰に振舞うでもない自分が食う分だけをつくるんだから適当でよいのだ。それでいいのだ。僕はそう思う。
料理をしながら音楽をかけるのはいいもので、ご機嫌に鳥肉を叩いちゃったりなんかする。これに呑みながらやると尚良しとのことを知り合いから聞いたことあるのだけれど、真面目なこと言うと危ないよなあと思う。火や包丁を使うからっていうよりかは、キッチンドリンカーは酒依存の道程であるからだ。朝呑み始めるのと、キッチンドリンカーになるのが酒依存の黄信号なんだそうだ。
主婦が陥りがちな落とし穴、おお怖い怖いと、Bメロでトントン、サビでトントン。ほいさ。対して、ながら音楽は楽しくてついやってしまう。
もしかすると、音楽依存になっていやいまいかと、はたと思い当たった。音楽を全く聴かずに一日過ごすことってあるのだろうか、街へ繰り出せば何かしらの音楽が流れているし、家にいたってテレビジョンをつければ、携帯電話の小さな画面の中でもすきあらば動画広告が流れてくる。ラジオからだって。頭の中で勝手に音楽が鳴り出すし、知らぬ間に口づさんでしまうこともしばしば。きちんと並べ立てられた音の大群が生活を包囲している。きちんと並べ立てられた音というのは自然に聞こえるけれど矢張り不自然である。川のせせらぎ、海のうねり、山の騒めきとは違う。一週間まったくの音楽を聴かずして過ごした事はこれまで生きた内で何度あるのだろう。仮に一週間音楽に触れなかったとしても、頭の中で鳴ってしまうだろうし、これは依存でなくして何だろうか。自然がまわりに無くなったから、整列した音楽を聴くようになったのか、整列した音楽を聴くようになって、自然を遠ざけたのか、何方か知れないが、元は自然に習った筈なのである。最初は自然と音楽は同じだった筈。お酒を呑みながら音楽を聴いたり、料理をしながら音楽を聴いたりすることは楽しいけれど、無音、若しくは自然の音楽では慊りない体になってしまっているのではないかしら。飲食店なんかでは必ずといっていいほど、音楽がかかっているもの。


トントン、トントン、トントン。いやあ、この包丁捌きじゃあ踊れないね。

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