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みみあな探訪

「耳かき中毒」なる現代病が存在する。
その治療薬のテレビコマーシャルを目にしてドキリとした。僕は紛うことなき耳かき中毒者であるからだ。

小さい頃は掃除をぐるっと季節一回り分耳のお掃除を怠るなんてざらであったので、耳のお医者にかかった事さえある。大きなスクリーンに映し出された、中の塵芥はそれはもう巨大なエイリアンのようでいて気味が悪い代物だった。そんな僕がいつを境にして中毒者に成り果てたのか定かではないが、推察するに「綿棒」の到来が原因が一つあるのではないかと思われる。最初は母親の膝枕で木製の耳かきでやってもらっていたんだろう。いつしか自らするようになり、綿棒に打って変わり綿棒が持つ物柔らかな掻き心地にあれよあれよと魅了されてしまったのだ。今では耳垢の方がおっつかないという状況になってしまい、かきだすための耳垢を貯める、貯蓄するというアベコベヘンテコな心持ちになってさえおる。これは耳かき中毒者か否かを判断する際の指標だといっていい。中毒者とそうでないものを分けるのはこの耳掻きをしていない期間をどう捉えているかなのである。中毒者は「線」で捉えていて、健常者は「点」で捉えている。もうちこっと詳しく話すと中毒者にとって、掻いてない期間はしっかり貯蓄期間として認識しており道半ばなのである。健常者はそんな事は考えずに、気が向いた時にお風呂上がりにでも思いついて耳を掻く。そう言ったところだろう。耳掻きをするその瞬間まで、耳掻きのことを考えておらず「点」で捉えているのだ。この差は大きい。旅の帰り路に耳かきに思いを馳せている時さえある。

僕の中で革命が起きたのは黒色の綿棒(くろんぼう)に出会った時だ。下宿屋に一人で住み出した10代の終わり頃、友人宅でその黒い綿棒を目にした。僕の中では綿棒といえば白色こそが本流でくろんぼうなんぞ亜種であり邪道も邪道、取るに足らない存在であろうと値踏みしたのだが物は試しと使わせてもらい、はたと気がついた。とれた耳垢がなんと見やすいことか。其奴は従来の物に比べ精神的な充足感を十二分に与えうるものであるということを察した。黒であるその意味を理解し其のひとかきで僕は宗旨替えすることにしたのだ。その後商店の綿棒コーナーをよくよく見ると、くろんぼうの更に異体の「スパイラル形」なるものを発見し腰砕けになった。
この頃になると目が肥えて、一目でこの黒スパイラルの目論みを見通すことができ即座に買い求め、其れからというもの専らこの黒スパイラルに御世話になっている。黒スパイラルを手にある時は坑夫のようにある時は探検者のように自らの耳を探るに余念がない日々を過ごしている。
叶うことなら一年ほど耳掻きをやらずに過ごして、熟練された「耳かき屋」(そんな人がいるのかしらないけれど、、)に施術してもらいたいところだが、実現することはないだろう。
しかしやり過ぎは何事も良くないのは十二分に承知している。心改めないとなあ。
なんて書いていると思い出して益々耳が掻きたくなってきた。















追記
今年も残すところ僅かでライブもあと2本で終いです。12月17日大阪塚本と12月25日の京都源湯です。(源湯の方は投げ銭でございます)
是非いらっしゃい。

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