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おわかれ漂流

学生生活の間に何度か別れを経験した。
誰しもがそうだろう。幼稚園保育園を卒園し、小学校、中学校、高校、大学とそれぞれに大なり小なり幾つかの別れを経験をしている。そんな中、別れの「重さ」や「質」は常に一定ではなく、移ろいでいるように思う。(質と言っても明確な定義はありません。なんとなくです。)

別れにも種類がたくさんあるがしぼって考えてみる。まず幼稚園の卒園式。
「いつのことだか思いだしてごらん〜あんなことこんなことあったでしょ〜」歌の題は忘れてしまったがみんなで合唱したことを覚えている。家の近くの保育園に入れず、遠いところから通っていたので卒園したあとみんなと同じ小学校には入学できず、はなればなれになってしまう。ということをどれほど分かっていたが覚えていないが、悲しい気持ちに胸がいっぱいにして心を込めて歌を歌った覚えがある。次に小学校。僕は2度の転校を経験した。この時期の2度の別れが一番重さがあったんじゃないかと思う。みんな一斉に門出をする卒業式とは質がまったく異なる。そして中学、高校と別れの重さは徐々に軽くなっていったように思う。(泣いている生徒は中にはいたけれど、僕は卒業式で感情が溢れ出ることがなかった。)

そう一番感じたのは大学の卒業である。学生生活最後の別れには諦めに似た感情が湧いて、「人は出会いがあれば別れがあるしそういうものだ」と自分の中に落とし込んでしまっていて、悲しみは奥底にぐつぐつと確かに潜んでいたのだが蓋をしてしまって溢れ出すことはなかった。高校の時の卒業式も似たような感情をいだいていたと思う。

海にみんなプカプカと浮かんでたとする。そうしたらば自然とばらばらになっていくのが普通だろう。海だけでなく人間社会にも流れというものが確かにあると思う。浮き輪をもって一緒に浮かんでいなければ普通はそれぞれにばらばらになって流れていくのだ。一緒に浮き輪に浮かんでいたって片方が手を離せば、ちょっと目を離した隙にすぐに姿が見えなくなることだろう。これは悟りではなく、一つの学習だ。人並みに別れを経験して得た知識であり、悲しむことによって疲れ果ててしまわぬよう自分を守るための、

自分なりの答えなのかもしれない。みんなはどう思っているんだろう。別れはいつでも悲しみに満ち溢れているって人も相当数いるだろう。そんな人には僕の言っていることはまったく分かってもらえないだろうな。うん。
別れに対する価値観、捉え方は人それぞれだろう。

一つ言い訳するならば僕の心情の変化だけでなく社会の変化も一因としてあるように思う。
今やインターネットやSNS普及により、国内外、場所をとわず繋がれてしまうのだ。自分の気持ちさえあれば足を運ばずとも、部屋から一歩も出ることなく声をきくことができるし、テレビ通話を使えば顔だって見れる。この時代に本当に別れなんかあるのかと考えさせられる。先日学生の頃の友達とテレビ通話していて酔っ払いながらそんなこと少し考えてしまった。
同窓会なんかも簡単に実現してしまう。なんだか味気なく思えて残念だ。インターネットが普及する前と後では別れの意味合いは変わってきてるんじゃないかと思う。
50年前の学生と現代の学生は変わらず、同じように別れを悲しんでいるんだろうか。

男女の別れだってそうだ。「耳をすませば」で、高校に進学して日本で待つ雫と、バイオリン職人を目指しイタリアへ留学する聖司も今やあそこまでドラマチックには成立しないんじゃないだろうか。「毎晩テレビ電話するから何も寂しくないね」と聖司が言っていたら閉口してしまう。こうなったら違う惑星にでも行ってもらうしかない。恋愛ドラマや映画の「別れの在り方」に着目して、年代別に作品をみると面白いかもしれない。






追記

最後に残されているのは死だけなんじゃないか。こればっかりはね。









結構前になるけど、高円寺のなみのゆという銭湯に歌いに行った時、スタッフさんにいただいたイベントのパンフレット。




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