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よ酔いの酔い宵


子供の頃二日酔いをする男に憧れていた。
頭を抱えて気だるそうに寝床から這い出て、水を飲む。「呑みすぎた、、」と気怠げで掠れた声を漏らし前髪をかき上げる。
何やいなこれ。なんだか男前でないの、此れなかなか良いじゃない。なんて思っていた。何を見てそんな取るに足らない下賎な心持ちになったのかは覚えてないが、何かに影響受けたのだろう。馬鹿ちんである。

父親が二日酔いには、トマトジュウスが美味いと朝に良く飲んでいた。そのせいなのか僕はトマトジュウス好きで普段からよく飲む。そして同じように二日酔いになるとトマトジュウスが飲みたくなる。そうでなくとも飲みたくなって自販機で偶に買うのだが、トマトジュウスを自販機で買う奴なんか初めて見たと何人かに言われたことがある。そんな時僕は、美味いんだけどなあと弱々しくぼそりとこぼすのみである。

ふつかよい。宿酔い、、。「宿酔」とも言う。酔いを宿す、、良い響きじゃないかと今でも思ってしまう、、。しかし騙されてはいけない、言い筈がないからだ。
酒を呑み始めてまだ10年も経っていない若輩者ではあるが、ある程度呑むようになって段々と酒との付き合い方のようなものを掴めるようになってきた。とはいえ何度かにいっぺんは見誤って沼に落っこちて翌日地獄を見る。僕は酒は好物なのだがそこまで酒に対して強い体ではないらしく、翌日に残しやすい。酒が嫌いな人であれば弱くったって、呑まなければ良い話で至極簡単なのだが、僕は好きなのに強くないのである。これは悲劇だ。いや喜劇かもしれない。
翌日の夕方、下手すれば辺りが真っ暗になるまで全快せず、一日中床に臥していることさえある。風呂にも入れずボサボサの油ぎった頭で、あー、とかうーとか蠢きながら、今後一才合切酒はしないと胸に誓いを立てるのだ。あれほど見苦しい姿はないだろう。そしてその誓いほど軽薄で無意味なものは無い。
百歩譲って呑みすぎることは良いとしたとして、寝る前に大量の水を飲めば翌日がだいぶましになるということを重々承知の上で何故、翌日救済措置の不履行のまま朝を迎えてしまうのが素面の僕には到底理解が及ばない。
ちょっと前に、少量の酒を呑んだだけで翌日に不調をきたしてしまうという時期があった。結句、原因わからぬままに治ったのだがあのときは酷かった。
そんな不調の最中に深酒をしてしまい、上から下から血が出て、トマトジュウスを飲んだわけでないのに何でかしらと頭を抱え、流石に不安を覚えてお医者に診てもらうか迷った。しかし二日酔いの足ではお医者には向かえない。行くとしても二日酔いが治ってからになるのだがいざ治ってしまうと行くのが億劫で放置するという愚行が何度か続いた。

一年が終わりに近づくと酒を飲む機会が増える。僕は一年の終わりに酒の神さんに感謝しなくちゃならない。呑んで酔えるということは大変幸せなことであるからだ。
二日酔いというのはきっと酒の神さんが、おいたが過ぎるよんと、扇子で頭をぴしゃりとやってくれているのだと思う。
これからもどうぞよしなによろしくお願いしますとお酒にむかって手を合わす。

皆さまもどうか程々にね。











追記
もう一年が終わりが見えてきましたね。
その前にクリスマスか

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