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白い時間
センセイはしきりにごめんねと謝り、大丈夫?と何度も言った。
12月25日の夜だからか、もしくは彼女の口癖なのだろう。
僕の横に座った彼女から、外の匂いがした。
おでんの汁と具のあいだから鯉が見える。センセイの方の器には日本猿が沈んでいる。
彼女はちくわにたっぷり辛子をつけて半分食べ、頬に手を当てながらおいひいと言った。
一軒目でたくさん食べたからと、センセイはおでんのちくわと昆布だけで、夕飯がまだだった僕はおすすめ五種盛りと鳥の唐揚げ、茄子の煮浸し、それに小さいご飯を注文した。
彼女は並べられた料理には手をつけずに、機嫌良くビールを飲んでいる。
目の前にいるセンセイは以前僕が抱いていたイメージとは違ったのだけれど、それは彼女が酔っている為なのか、そもそも忘れているだけなのかはよくわからない。
家に帰るところ、「達磨と金魚」という居酒屋の前で、センセイに声をかけられた。
何で名前を知っているんだろうと訝る僕の肩に彼女はそっと手をおいた。
「めいりん小学校、タカハシよ、タカハシ」
これで安心したでしょ?といった風に彼女はこくっと首を傾げる。
次第にそんな担任の先生がいたような、そんな気になった。だから、まるで思い出したかのような顔をしてお久しぶりですと言った。
センセイのことを忘れてしまっているということは、僕の態度ですぐに分かったろうに、別段気にしている様子もなく終始にこやかにしている。
「ごめんね急に声かけちゃって。正面からあなたが歩いてきたとき、びっくりしちゃって」
この時彼女は最初のごめんねを言った。
センセイは最初のおでんを食べたきり、あてもなしに次々にビールを飲み干し、店員さんが横を通るたびにおかわりを注文する。
仄かに赤くなった顔は赤ん坊のようにも老婆のようにも見え、彼女の年齢が気にはなったが、尋ねるのはやめておいた。
センセイに年齢を聞くのが失礼にあたるのかどうかよくわからなかった。店の人からすると僕たちの事がどういう風にみえているのだろうか。
カウンターに並ぶ僕たちのことを、店主がちらちらとみているような、そんな気がした。
「ごめんね。一軒目で飲んじゃって、もうかなり酔っ払ってるの」
お風呂上がりのような艶やかな肌にうっすら皺が滲み、笑う度に線は濃くなった。
僕が小学校のとき、センセイは今の僕ぐらいの年齢だったろうから、50ぐらいになっているだろうと検討付けたところで、小学校当時、彼女が僕と同じぐらいの年齢だ、ということになんの根拠もないということに気がついた。あの時、大人の年齢なんて考えもしなかった。
教室に立つ彼女の姿がふっと浮かぶ。
「少しもらっていい?ごめんね」
センセイが僕のそばにあった茄子の煮浸しに手を伸ばしたので、皿を彼女の方に寄せると手が触れ合った。温かい手だった。
ビールを勧められたが、ご飯をたべてお腹が膨れたからと、熱燗をもらうことにした。
熱燗を待っているあいだに今年からこの町の小学校に赴任したのだという。僕は相槌をうつだけで殆ど喋っていない。
あの時と違ってね、今はとっっても優しいのよと彼女は笑った。「あの時と違って」と。
それから、空になったグラスを持って、熱燗がきてからにしよっとつぶやく。
空のグラスが少し強く置かれた気がした。僕は、器の横に飛んだ彼女の唾をしばらく見つめた。
若い女性店員はお猪口を二つテーブルに置く。
何も言わずにセンセイは二つのお猪口に酒を注いだ。微かに湯気が立ち上った。
教室の窓から、遠く向こうにめがけて紙飛行機を投げた。よく飛ぶように研究された試作品。
山からおりてきた風にのって紙飛行機はふわり上昇し、空の底の方を旋回した。校庭で走っている生徒の頭の上を紙飛行機はそよそよ飛んでいき、僕はそれを見つめる。後ろで友達がはしゃいでる。うるさい。猿のような鳴き声をあげる。
風でカーテンが膨らんで視界を遮られた。紙飛行機が見えない。
あのあと紙飛行機はどうなったのだろう?所詮、紙飛行機なんだからグラウンドに落ちたに違いないのだろうけれど、覚えがなかった。教室の中を見渡すと部屋の中がとっても暗いように思えた。
首をすぼめながら外を歩く人が見える。冬の風に叩かれた店のガラス戸が音を立てた。テーブルに並んだ三本の銚子震えているような気がした。
あのときと違って優しくなったセンセイはよく笑った。
僕のことを面白がった。
席を立つと酔いで足がよろめいた。
「ごめんね」
レジスターにはクリスマスツリーのフィギアが飾られていた。
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