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ごしごし居心地


ごしごし。ごしごし。


何故こうまでして体じゅうを洗わなくてはすまないのか。
これまで何度石鹸をごしごしと体にぬりたくってそして洗い流したことか。
月に一度や二度の話ではない。
此れを怠ってしまうと人でなしの烙印を押されてしまう、、というのは思い過ごしかしら。
僕にはそんな気がしてならぬ。

獣臭さが出ないよう、動物になってしまわないように日々必死だ。
食うこともできないものを体に塗りたくるなんて奇行じゃないか。
皿を洗う洗剤にしたってそうだ、口にできないものを、食い物が乗っかるところに塗りたくるなんて、、、。
野菜を洗剤で洗う事なんかできやしないじゃないか。

なんてことを考えながら目の前の猫の奴を見ていると、日向ぼっこでもしてる間に我の体をぺろんと舐めておる。
気持ちよさそうである。猫はこれで終いである。飼われている猫は桶に入れられて洗ってもらっているのかもしれないが洗ってもらえるなんて何とも楽ちんな話で人間だと湯屋いったとて自分で洗うのが通例であるから難儀するのだ。
入院をしたときに1週間ほど風呂に入らずして過ごしたが髪があぶらでかたまり、大変気色良くない思いをした。決して綺麗好きというわけでない僕でも流石にそうであった。

汚い、不浄だと思う心は何処から来るのかしら。例えば蝿を汚いものと考える根っこにあるものは何かしらん。
自分を清浄なものとして思いたくて必死になっているように思えてくる。
汚いとは一体何なのだろうと考え出すと、なんやらほいと、答えが出ずにとぐろを巻く。
ぐにゃふにゃ。
体が汚れた、或いはそう思えた時僕の心の奥底には何があるのだろう。
不浄、不潔なものと捉えているものを見下しているのかもしれないし、明らかに線引きをして対岸から見物するがごとく我が体は清浄なものとして身を埋めているのかもしれぬ。

汚い心と表現する事があるけれど、心が汗をかいてるわけでない(ですよね?)
この場合の「きちゃない」は「良くない」の比喩表現として成立してるわけで、やっぱりきちゃないのはイケナイ事のようで、、、。
例えば、心が清らかな仏さんが滅茶苦茶に臭かったとしても人は其れでも祈るのをやめないのかしら。



こんなことをつべこべ言って、風呂に入らない奴が居たら皆さん縁をきりますか?笑








追記

10月6日大阪十三 BAR RAINCOAT
古川麦
guest: いちやなぎ
start 19時 ¥2500(+1drink)

古川麦さんの公演にゲストとして参加させていただきます。是非遊びにいらしてください

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