月夜の山路に虎はいが栗を食う
「月夜の晩は、虎や、いが栗に気をつけて(仮)」
店の外に売りに出されている百圓本を買って開いたらね千圓札が挟まっていまして、九百圓の儲けですよ、ははは」
そう笑いながら話すのは近くのお寺の住職さん。僕はこの手の話が好物である。
ある人は同じ店で古本を買い求めて、ヘソクリが入っていて中身はなんと五万、お店の人に伝えてちゃんと返したという話をした後でである。自分を話のオチにつかっている。
生臭坊主なんて言葉があるけれど、僕としてはそうやって砕けたお話をきかせてくれるほうがよっぽど信頼を寄せてしまう。品良く下品な話ができる人はすごい。
お坊さんはお話が上手だなと、じいちゃんやばあちゃんが死んでしまってから思うことが何度かあった。時に、「あの若いお坊さんは、話が面白くない」なんて軽口を叩かれているのを見てそんな無茶な、と小さいながらに閉口した記憶がある。
上方落語の源流は売り子の客寄せで、江戸落語は坊さんの説法(諸説あり)みたいな話を聞いたことあるが、人の耳を頂戴するのに、ある程度のユーモラス、俗っぽさが必要になってくるのだろう。退屈な話はなんせ退屈だから。
そんな住職から頂戴した羊羹が目の前にある。
最近とんと食べてなかった。
あの有名な虎屋の羊羹。
「お詫びの菓子折りは虎屋の羊羹で決まり!」なんて話があるが本当に持っていく人なんてどれほどいるのだろうか。僕は幸いにも菓子折りを持って謝りに来られた経験がないのでその辺がわからない。単なる虎屋が羊羹を売る口実にでっちあげたものなんじゃないかと疑ってしまう。
「謝りに行くのに最適な菓子折り」という存在自体がなんだか納得いかないし、誠意を届けるに定型便があっていいものか。なんて。
もし僕が謝られる立場だとして、虎屋の羊羹を持ってこられたら、可笑しくなってしまうかもしれない。なんだか下品に品良く振舞っている気がしてならない。虎屋であるが羊羹ではなく別の菓子折りだった場合、もっと笑ってしまう、羊羹じゃないのかいと。
これは僕が間違っているのだという事ぐらい重々承知している。まずは相手に姿勢を見せることが先決、話はそこから。謝罪する時間帯はお昼の13時〜14時が好ましい。菓子折りはあまりに高価過ぎるものもいけない。
考えれば考えるほどに面倒だ。
羊羹は程よい甘さで苦い珈琲とよく合う。
僕は石川県にある松葉屋の「月よみ山路」という栗羊羹が、羊羹の中で一番好きだ。
もし僕に謝りたい人がいたらぜひ虎屋でなく、月よみ山路を持ってきてほしい。それか圓八のあんころもち、これも石川。
乱れた心に甘いお菓子、確かにいいかも知れない、けど懐柔策に思えてしまうというか、逆にその甘さがいやらしく感じられないだろうか。
「月よみ山路」の名前は禅僧の良寛という坊さんが読んだ句からきてるらしい。
「つきよみの ひかりをまちて かえりませ やまみちは くりのいがおおきに」
月の光が出るのを待って家に帰りなさい 山の路は栗のいがが落ちててあぶないから。という意味らしい。
優しさ溢れる、それこそ柔らかい月明かりのような句だ。
自分が謝りにいって、帰る時に相手からこんなこと言われたら泣いてしまうなあ。
追記
アルバム「IRAHAI」リリースに際しての催し
東京と名古屋の二公演(また別に他の場所もいきます)
共演者がとても豪華です
僕は複数人編成で臨みます、ぜひ遊びに来てください。