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チョコレイトで待ちながら


「チョコレイトいります?」
駅のホームでおそらく知らない女性に声をかけられた。
以前どこかで会った人なのだろうと頭をスクランブルエッグみたいにかき混ぜてどうにかこうにか、彼女を思い出そうとし、大抵そういった場合、僕はコミニケーションがちぐはぐになってしまう。
自責の念と、どうにかやり過ごせやしないかという助平ごころとがごちゃまぜとなって平静を装えないのだ。
彼女の方からどこそこあれこれの時はどうも、なんて手がかりを出してくれやしまいかと、待ち構えるのだが、彼女は個包装されたチョコレイトを笑顔で差し出すのみで、顔をしっかり見てもやっぱり思い出せない。

どうしようかしら。

至る所でライブをしているから、共演者やイベントスタッフのお世話になった人という可能性も大いにあって難しい。
唯一の手がかりである彼女が発した「チョコレートいります?」は、語調からしても敬語なのだと判断してよいだろうし、学生時代の友人ではないことは確実であるから、こちらもある程度の親しみを込めた敬語で進めて間違いはないのだろうが、問題は一体何を話せば良いのかということで、まあこういった場合(僕はままあるのだが)、下手に動かず待つのがいい。
僕はまずはこの動揺を落ち着けることに専心することにし、電光掲示板をみると電車がやってくるのにまだ五分ほどの時間があった。

以前会ったことのある人のことをすっかり忘れてしまっているのだぞと、僕の不安を煽る、彼女の親しげな表情、手渡されようとするチョコレイト。
「どうも、ありがとうございます」
チョコを受け取ってしまってから、ある違和感に気がついた。
もし彼女が知り合いだとして、駅で偶然、居合わせた知人に開口一番「チョコレイトいります?」なんて聞くだろうか。
そんなコミニケーションが成立するのは、毎日顔合わせている間柄くらいだろうし、普通ならば、ああどうも、と軽い挨拶からはじめないだろうか。
覚えていないと正直に白状してしまえば楽ちんなのだろうが、咄嗟に誤魔化しの態度をとってしまって今更言い出しづらい。
しかし、このままごまかし続ければもっと辛い思いをするのは明らかだ。
「ここのチョコレイト美味しいんですよ」
僕の心の内とは裏腹に楽しげにそう言う、彼女は「チョコレート」を「チョコレイト」と発音する。
はじめ感じた違和感の正体はこれだった。
てっきり彼女主導で話を進めてくれるのかと思いきや、彼女はチョコレイトが美味いのだということを最後にむっつり黙ってしまい、電車のやってくる方ばかりを眺めているから、ますますわけがわからなくなった。
気詰まりを感じて、こちらから話を切り出そうと、喉まででかかったところをすんでのところで自制し、だって話せば話すほどにボロが出るだろうから、黙ってるのが最善であるに違いない。そう、あちらが黙るならこちらも黙って、そうしたら愛想つかせて彼女の方から、それとなく離れてくれるかもしれないと、黙するという方向に舵をきった。
二人は電車がやってくる方向を遠く眺めながら、日が暮れて冷たくなった風にあたっていた。掻き乱された心に丁度いい。
嫌に濃密で重たい時間が流れ、いつまでたっても電車がやってこない。
たった5分がとてつもなく長く感じられる。

手渡されたチョコレイトの始末をどうつけようかということを考え、やっぱり彼女の前で食べたほうがいいのかしら、しかし未だに誰ともわからない人物から受け取ったものを口にしようという気にはなれず、僕は全ての解決を先送りにして、電車がやってくるのをただ待っていた。
このまま一緒に乗り合わせるとなるとやっぱり、「どちらさまですか」と思いきって聞いたほうがいい。
しかし、ふんだんに間のあいた「どちらさまですか」は怖い、とても怖い。
深い井戸に石を落とすような怖さがある。

食べないんですか?と言われやしまいか恐れながら、個包装されたチョコレイトを手の中で転がす。
百貨店で置かれていそうな、ちょっこし高価そうなチョコ。
そのままずっとむこうをむいたまま、時に彼女の黒く長い髪が風に揺られてシャンプーの香りが漂った。
電車の姿が現れるや、アナウンスが流れ、後方のベンチに座っていた人や待合室の中にいた人たちがぞろぞろ、トランクを下げた駅員が現れ、一気にホームが賑やかになった気がして、幾分気が軽くなった。
立って待っていたのは僕たちだけのようだ。
電車は停車し、ドアが開く。
僕は電車に乗り込んだが、彼女は乗らずにホームに立ったまま。
彼女を避けて他の乗客が次々と乗り込んでくる。
「あ、じゃあ僕はこれで」
僕は二軒目を断って先に帰るかのような塩梅で彼女に会釈したのだが、何故か彼女は僕の方を見ていないし、別れの挨拶も聞いていない。
ドアが閉まる。
ゆっくり動き出す電車、彼女が見えなくなる寸前、目があったような、気がした。

しばらく車窓に映る自分をぼうっと眺めた。
チョコレイトは中でぐちゃぐちゃに溶けていた。






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