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フォアグラポストと亡霊ポスト

僕はとてもズボラなので、ポストよく溜め込んでしまう。なにか特別な便りが来ると分かっている時以外は、1週間ポスト開けずにいることなんかしょっちゅうである。普通は日に一度は確認するものなのだろう。ほぼ毎日一度は外出はしているのだが、なぜかサボってしまう。

久しぶりに対面すると様子の変わりように驚く。ポスティングチラシがこれでもかと詰め込まれて、口をあんぐりとあけている泣きっ面ポストがそこにあった。(たまにいたずらなのかというほど詰め込まれている。同じ種類のものが何枚も入っていたりだとか)大量消費社会の波をその小さな体で受け止めた無残な姿は、フォアグラを連想させる。一度だけフォアグラを食べたことあるのだが、あのまろやかな美味しさにある裏側の調理過程を知ってしまった時は大変いたたまれない気持ちになった。これが単純かつ一面的な物の見方であることは自分でも理解しているし、牛、豚、鳥それに類する動物を普段から食べておいてそれはないだろうとも思うが、何か考えさせられるものがあった。この味には何が詰まっているのだろうだとか、、。愛でないことは確かである。誠に勝手だが、普段動物を食べるときにはそんなことは考え無い。

ポストに話を戻す。
そんなポストを見ると、お腹いっぱいで幸せそうにしてる風にはとてもじゃないが見えない。見方をかえると主人の帰りを信じて受け止め続ける勇者ととれないこともない。もしかすると旅行にいく主人の背中に向かってポストは、俺に任せとけと胸をはいっているのかもしれない。ポストにとってどちら幸せなのかは知る由もないが、ことに全ては僕がズボラなせいなのである。

路地裏を歩いていると、もう誰も住んでいない空き家のポストにもチラシがこれでもかと詰め込まれいる(もはやチラシささっている状態)のをたまに見かけるが、あれは弓矢がささった落武者を連想させる。もう役目を終えてしまった彼は堕落して生気がない。苔がシミのようにところどろ生え老朽化した家屋にそんなポストがあるとなんだか言いようのないじめっとした気持ちになるのだ。主人をなくしてどこにも行き先のないチラシたちを受け止め続けているポストはふらふらさまよう落武者の亡霊のように覇気がなく、そこにうなだれているのだ。(そりゃそうだ。ポストは何処へもいかない。)そんな亡霊ポストはどんな街にもいくつもあることだろう。勿論あなたの街にも

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