見出し画像

言葉でてくてく思いでころころ

メロディ(思い)を紡ぐのは坂道をころころとくだるように行きたいところへなすがままという感覚なのだが、文章を書くとなると山を地道に、てくてくと登っていくイメージに近い(今まさにのぼっているところですね)
こうやってあらためて文章にすると自分の感情や事象をなかなか上手く言語化できずなんだかきりきりした気持ちになってしまう。もどかしい。
これはみんな思ってることなんだろうか。僕が未熟なだけなのかしら。

僕の場合、心の機微をうたで表現できているのは(あるいはできていると思えるのは)メロディに頼っているからだと思う。歌に逃げているととらえていいかもしれない。
そこに緻密さや正確さは存在せず、ただ観念的なものをぼんやりとしたまま表現している。そこに実体ない。おばけなのだ。そう考えると空虚なものに思えてきてしまうが、それが気持ちいいんだからしょうがない、、、、。とこれじゃあ湯船につかる理由と大して変わらない。(これを気持ちいいとだけで表現してしまうところがダメなところなんでしょうね)

言葉が先に顔を出すのか感情が先に顔をだすのかよく分からない。というのは、知らない言葉や表現に出会うと感情(こころ)の幅が広がったような感覚になるのだけれど、かと思えばうやむやした言い当てることのできない名無しの思いが心の奥の方ひそんでいるのではないかと感じるときもあるからだ。 言葉によって感情が芽生えるのかそれとも、言葉がもともと心のどこかにあった感情をすくいとっているのか、不明である。

同じ言葉、パターン化された言葉ばかり使っていると心がせまくなってしまうのではないかという思いが少なからず僕の中にはある。「ヤバイ」という言葉をなるべく使わないで他の言葉で表現しようと気をつけていても無意識のうちに使ってしまっていてドキっとしてしまう自分がいる。知らぬまに乱用してしまっているのだ。今や若者言葉ってこともないだろうし、ある程度場所をわきまえれば使って悪い言葉では勿論ないのだが、便利な分副作用が大きい(ヤバイ)ような気もする。そうやって少しずつ自分の気持ちに対して鈍感になっていくなんて考えると恐ろしい。考えすぎだろうか。

人と話すにしても、頭の回転が鈍いのもあって、上手いこと淀みなく自分の心の中にあることを伝えることができず、言葉に詰まることがしばしばある。自分の思いを上手く表現できずに、心の中で「こうじゃないのになあ、もっと言い方あるだろう」と苦心するのだ。単純に単語がでてこないことなんかもよくある。文章だとゆっくり足もとをみながら歩けるし、時には立ち止まったり振り返ったりできるので会話よりかは、いくらかましだろう。ここには思ったことを(ある程度人に見られているという前提のうえで、時にはよそ行きのジャケットを羽織ったりしつつ)自由に綴りたいと思う。暇で暇で仕方ないときに目を通してもらえたら幸いである。



追記
ここまで登ってみてちょっと景色を覗いてみたけど、低いなあ。そりゃそうか


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?