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私たちブラウニーで会いましょう
「いまどきブラウニーを知らない人なんていないよ」
出会ったばかりの女性に笑われた。
その日は笑われてばかりだった。
はたしてそうだろうか。僕はそのブラウニーというものがそれほど世間に浸透しているとは信じられなかった。
適当に入った喫茶店。何度も前を通ったことがあったが、入るのは初めてだった。
流行のグループや映画を悉く知らない僕に最初は驚いて、それからけたけた笑い、覚えたほうがいいよ、その方が絶対いいとの助言をくれた。
馬鹿にするというよりかは僕を慮ってくれたような感じである。
彼女から聞いた言葉をいちいちメモ帳に書きつけて、あとで調べておくことにした。絶対いいのかどうかという点については些か疑念が残らないでもないが、覚えて損はないだろうと、彼女へのアピールということも兼ねて、うんうんと傾聴し、良きところで質問を挟む。彼女が注文した飲み物、それはなんだときいたら、カモミールテーだと言う。
香草めいた香りが漂い、きっと異国のものだろうと検討づけた。
「飲んでみる?」
飲んでみたが摩訶不思議な味に、もう一口いこうという気にはなれず(もとから一口だけ頂戴する気だったのだけれど)、こりゃあ美味しいねとカップを返した。
彼女はおしぼりで僕が口をつけたところを丹念に拭いてから、カモミールティーも初めてなんだねと優しい笑顔をくれる。
そう、そんな摩訶不思議な飲み物は一度も飲んだことはないし、これからも飲むことはないだろう。
そんなことわざわざ彼女には言わないけれど。
お返しに僕のブラックコーヒーをあげようとしたらそれは断られてしまった。僕はコップの水を一息に飲み干し、それを目の前で見ていたウエイターがすかさず水を注ぐ。
先ほどからこのウエイターの若い男に会話を聞かれているんじゃないかと思っていたところで、なんせ十ほどあるテーブルに座っているのは僕らだけ、店内はごく控えめなBGMが流れているだけなので、会話は丸聞こえ。格好の暇つぶしになるだろう。
若いその男はブラウニーもカモミールテーも、グループも映画も何もかも心得ているのだろうなと思わせる風貌だった。
「僕はブラウニーを食べたことはあるのかしら」
彼女は絶対にあるからといって、喫茶店お手製のソレを注文し、ブラウニーはチョコレイトケーキと生チョコの間のような感じなのよと、要領を得ないことを言い、「チョコレートケーキと思ってもらっていいけれど決してチョコレートケーキじゃないのよ」とますますわけがわからなくなって、いちおうはその通りにメモをしてみる。
彼女は僕が書いているところを家庭教師のような目で見守り、テーブル下の彼女の足を盗み見ると、貧乏ゆすりで小刻みに足が震えていることに気がついた。
彼女の手元にあるコップの中の水は小さく揺れている。
ウエイターの若い男が運んできたスイーツを目の当たりにして合点がいった。
確かに何度も見たことある体の菓子だし、食べたことがある気もする。
一口食べてみると、彼女の言っていたことがよくわかる、成る程確かにチョコレイトとケーキの間の子のようだ。
君もどうぞとお皿を彼女の方に押しやると、私は大丈夫よ、ここのお店のブラウニー何度も食べてるからと突き返された。
さっき二人で街をぶらついている時、ここへは電車を二度乗り換えて、やってきて家は遠いのだと聞いていたが、常連なのだろうか。
「僕ブラウニー知ってたよ、美味しいね、久しぶりに食べたよ」そうでしょうと、彼女は笑う。
ブラウニーは美味いには美味いが、この店のものは一切れがとっても大きく、おしながきを見ると定食並みの値段がした。これを食いきるのは至難である。
もう一杯珈琲が飲みたいなあと思ったところで、急に逆らえない眠気に襲われた。
だんだんと頭が鉛のように重く、目の前の彼女は霞んで、まぶたがせまってきた。ウエイターの男の驚いた表情を最後についに僕は眠ってしまった。
目を覚ますと伝票とカモミールティーを残して彼女は消えていた。