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日暮れ色のろまんす

日暮れ色に浸った往来は、いつも通りに輝いて、いつも通りに影を落とし、僕の頭の上に温もりを落っことしてくれている。
ぼくのそばを通り過ぎていく、これまた温い其々の頭は、携帯電話を弄ったりだとか、音楽を聴いたりだとかしている。僕はといえば、お耳に何もつけず手に何も携えずにポッケに幾らかの小銭だけ持って道の上を歩いている。
地下鉄の駅を通り過ぎて、僕が歩く地面の下では頑強な鉄の塊が彼方此方へと疾駆しているのかと思うと不思議な心地になるけれど、ただ不思議な心地になるだけでそれ以上の思索に耽ることはなく、もう今は、高い高いビルは一体どうやって建てるのであろうかということについて、空を見上げながら考えている。
鉄の枠組みがあったなあと思えば、次にそこを歩くときにはフィットネスジムになっているという塩梅で、ビル普請を頭からお尻まで始終見通すことは無いので、気づけば出来上がっているのが常である。上も下もこの世は不思議がいっぱいだ。

おんがくが好きな僕が何でお耳に何も嵌めずに唯歩いているかというと、線無しのイヤホンのお家を落っことしたからである。お家が無くなると、イヤホンは電気を溜めることができないのでやがて使い物にならなくなる。家なきイヤホンは生きることができない、僕も家を無くして、どれだけ生きれるのだろうかと考えると、自信がなくなってくる。帰る家があるというのは素晴らしいことである。僕のイヤホンは帰る家が無い。(僕の所為で)せめてもの償いの心づもりで、同じものを買い求めようと思う。そのイヤホンはもう一度買いたくなるほど、程度の良い物では無いけれど、同じものを買ったならば、今ある、家なきイヤホンも一応は使える。ポッケには眠りについて久しいイヤホンがいる。彼方から人が歩いてくる。夕暮れ時の日差しのせいでこちらからは歩いてくる人々の顔が見えない。此処は周り高い建物に囲まれているせいか音が跳ねっ返りよく響く。前から歩いてくる人の足音が明瞭に立体音響のようにお耳に届く。何処かでカラスが鳴いている。姿は見えんが空を飛びながら鳴いているのだろう、パンをふったように鳴き声は左から右へ流れていったのだからきっとそう。その足音のちょうど裏拍のところでカラスが鳴いているものだから合いの手を入れているようになった。カラスのお歌に足で拍子をとっているのか、踊りにカラスがお歌でコーラスしているのか、いったいどちらなのか判然としないがぴたりと息があっている様に笑えてくる。向こうから歩いてくる人とすれ違うそして僕の頭上、お空の上にカラスが鳴きながら通りかかる。そんな、とんでもない奇跡がおこった。







追記
いちやなぎらのでんぱ(兄弟のpodcast)
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