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【ジョージア物語】断水中の美容室でシャンプーしてもらった話
「もし、美容室でパーマなどの施術中に、停電・断水してしまったら、どうなりますか。」
Yahoo!知恵袋に匿名IDから寄せられた質問である。
ベストアンサーは以下の言葉で締めくくられている。
「まずないことですので、不安になる必要はないと思いますよ。」
そう。まずないことだ。そもそも、これまでの人生で「施術中の美容室で断水が発生する」というピンポイントなシチュエーションなど想像したこと自体なかった。
ジョージアに来るまでは。
バトルの幕開け
数日前にジョージア・トビリシの地に降り立った。日本からジョージアへの直行便はない。東京からイスタンブールで約14時間、イスタンブールからトビリシまで約2時間、その間に7時間の乗り継ぎ待ち。家から空港への移動も含めると丸一日以上になる時間を費やしてトビリシにたどり着いた。
とにかく一刻も早くシャワーを浴びてベッドで休みたかった。
長時間のフライトで私の髪はパサパサだった。今日はしっかりトリートメントしなくては。
そう思い、ホテルに荷物を下ろした後、スーパーFRESCOに立ち寄り、シャンプーとトリートメントを探した。
目を引いたのは馴染みのあるPANTENE。PANTENEなら安心だろうと手に取ると、パッケージに書かれていたのはジョージア語とロシア語のみで、自分が手に持っているのがPANTENEのシャンプーなのかトリートメントなのかが分からない。非英語圏の国に来たことを実感した瞬間だった。ChatGPTにそれぞれシャンプーとトリートメントだと教えてもらったPANTENEの商品をカゴに入れながら、「ChatGPT愛してる」とつぶやいた。
渡航前に、トビリシが硬水の地域であることはリサーチ済みだった。これまでの短期間のヨーロッパ旅行ではたいして気にならなかったが、今回は一ヶ月も滞在するので、これを機に肌トラブル・髪トラブル対策について知っておこうと、硬水が引き起こすトラブルに関する記事を読み漁った。特に、フランスの強力な硬水で髪が痛んだり抜けたりして悩んでいたフランス在住者のnoteやブログは何度も読んだ。
要するに、可能な限り水道水で顔や髪を洗わない方がいいということだ。硬水の持つ成分によって、顔も髪も洗えば洗うほど傷んでしまう。そのため、顔に関しては洗顔フォームよりもふきとり洗顔が適しているし、髪に関しては毎日洗わない方が良いコンディションを保つことができる。
出発前の私は、これらの情報をふまえ、ふきとり洗顔用のグッズを完璧に揃えたが、髪に関する準備は怠った。「いや、そうは言っても毎日髪は洗いたいし、コンディショナーとトリートメントをしっかりすればいいのでは?現地で売ってるものなら硬水に対応してるだろうし・・・」そう気楽に構えていたのだ。日本からはヘアケア商品を一切持っていかなかった。
昨年の秋、オーロラを見に訪れたフィンランドのロヴァニエミのホテルで、用意されていたシャンプーを使って髪を洗った瞬間、衝撃的な量の髪が抜ける経験をしたことがあった。軟水の地域であるはずのフィンランドで。シャンプーが劇的に合わなかったのかもしれないが、一日一日が宝物になったフィンランド一人旅の思い出の中で、ロヴァニエミで髪が抜けた事件だけは思い出すたびゾッとするホラー体験として記憶に焼き付いている。
そのホラー体験を、私はトビリシで繰り返すことになった。
結局、シャワーを浴びられたのは夜だった。人は睡眠不足になると生存本能が発動し、生命を脅かす危険を回避するために思考がネガティブな方向へと舵を切る。24時間以上まともに寝ていない、つまりネガティブレベルが限界に達していた私を、その夜のシャワーは一撃で打ちのめした。
本当は、この瞬間を迎えるまで、見過ごそうとしてきたストレス要素がいくつもあった。
睡眠不足だけではない。これから一ヶ月無事にやっていけるのかという不安、スーパーで読めなかったジョージア語とロシア語、ホテルに入ろうとする私の前に立ちはだかり吠える野良犬、ホテルを囲む廃墟のような住宅街、チェックイン時のトラブル。
「ジョージア滞在を実りあるものにする。予想外のことが起きるだろうけど、とにかく目の前のことを楽しんで、一ヶ月がんばっていこう。」そう決意して来たし、笑えるほど物事が予定どおりに進まない状況には中国生活で慣れていた。だから、野良犬が怖かったことも、なかなかチェックインできなくて困ったことも、笑い飛ばせば「面白かった出来事」になると思った。
それでもストレスはストレスで、自分の本心を誤魔化すことはできなかった。泣いた。ジョージアに来るのは自分が決めたことなので「帰りたい」とは考えなかったが、遠く離れた家族のことが頭に浮かび、声が聞きたくなった。ジョージアより5時間進んでいる日本は、とっくに0時を過ぎている。家族はもう寝ているだろう。
来て早々、あたたかく送り出してくれた家族に弱音を吐きたくない。硬水は私が倒す。
この日から私と硬水とのバトルは始まったのだった。
硬水バトル
気持ちを切り替えた私は、以前からトビリシに住んでいる日本人の方たちに助けを求めた。調べたところ、硬水に打ち勝つ最適な方法は、軟水化シャワーヘッドで硬水の成分を取り除いて軟水に変換することだ。検索しても、現地ですぐに手に入るシャワーヘッドは見つからなかったので、もうあとは誰かがいらなくなったシャワーヘッドを買い取るか有償でレンタルするしかないと思った。そんなうまい話があるはずもなく、一つ目の作戦は失敗に終わった。
翌日は、ヘアケア商品を求めてトビリシの観光地エリアに繰り出した。目当てはドライシャンプー。一旦洗うのはやめてみようという算段だ。硬水とのバトルと銘打ったが、奥の手軟水化シャワーヘッドが使えない以上、戦わずして勝利を狙う。
今までドライシャンプーを使用したことがなく、パウダーやミスト、シートなど、様々なタイプがあることを知った。私がショッピングモールで手に入れたのはパウダータイプ。吹きかけてみるとチョークの粉がかかったように髪が白くなったのでパウダーだと分かった。必死に揉みこんでみるが、なかなか馴染まない。仕方ないので、顔の保湿用に持ってきていたエビアンのフェイシャルスプレーを髪にバシャアアアア!!と吹きかけた。
ネットで調べたドライシャンプーの手順は終えたはずだが、「シャンプーした感」はゼロだった。これは続けられないと思った。
一方で、顔にしか使ってこなかったエビアンのフェイシャルスプレーは、広がる髪を少し整えてくれることに気がついた。まさかここでエビアンのフェイシャルスプレーが活躍するとは。ふきとり洗顔だけでは物足りなくなる未来を想像し、Amazonで購入しておいた過去の自分に感謝し、一旦これをヘアスプレーとして使おうと決めた。(ヘアスプレーはショッピングモールでは見つからなかった。)
保湿に関してはなんとかなった。
しかし、肝心なのは、洗う方である。
キムとの出会い
軟水化シャワーヘッドもドライシャンプーも使えないのであれば、私はどうやって髪を洗えばいいのか?
髪を守るために週に1〜2度しか髪を洗わないというヨーロッパの女性のスタイルを、いっそ私も実践しようかと考えた。
ただ、一つ気がかりなことがあった。外を歩いていたときに感じた排気ガスの匂いだ。日本にいた時に、トビリシに滞在していた友人から「排気ガスがすごいですよ」と言われていたので心の準備はできていた。外を歩き、ホテルに帰ってきた時には、髪から火薬のような謎の匂いがした。このまま寝るのは嫌すぎる。もういっそのこと洗ってしまいたい、でもこれ以上髪を失いたくない。私の相手は、手を洗っただけでも指先からパリパリにしてくるアグレッシブな水である。
ふと、自分が読み漁っていた記事を思い出した。その記事には、フランスではシャンプー&ブローのためだけに美容室に通う人が多いという記載があった。
これだ。
自分でどうにもならないならプロの手を借りてしまえ!
Google Mapで検索すると、高評価の美容室が何軒も表示された。次々に詳細を確認し、メニューの中に「シャンプー&ブロー」を探した。幸い、数軒候補となる美容室が見つかり、早速行ってみることにした。予約サイトは見当たらなかった。とりあえず行ってみて、入れたらラッキーだ。
その美容室を見つけるのに、私は5分ほど迷った。Google Map上ではもう到着したことになっているのに、美容室は見当たらなかった。レビューを開くと、大きな門の写真を投稿している人がいた。どうやら住宅街の中にあるらしい。大通りから見えた住宅街に入ると、写真と同じ門があった。
美容室のドアを押すと、中にいた3人の女性が一斉に私の方を振り向いた。誰がスタイリストで誰が客なのか分からなかったが、私に話しかけようとしていた女性に「あなたがスタイリストですか?」と話しかけた。片手には、英語が通じなかった時のために「シャンプーとヘアケアだけやりたいです。予約は可能ですか?」とGoogle翻訳したジョージア語を表示したスマホを握りながら。
その女性は"Yes"と答えたが、私に追加の情報を尋ねることなく、お店の奥に誰かを呼びに行った。出てきたのはスキンヘッドの男性だった。
たしか、彼の名前はキムだ。レビューに「キムは最高」「キムがいない美容室には行けない」など、彼を大絶賛する声が並んでいたので、キム=凄腕美容師として私の脳内にインプットされていた。
予約は可能かと聞くと、キムは「いいよ!名前を入力してね」とスマホを手渡してきた。入力フォームの下にはロシア語が表示されていた。名前をフルネームで入力し、「それでは18時半に!」と手を振って、作業をしにカフェに向かった。
「問題がある」
予約していた時間よりも10分ほど早くお店に戻ってきた。おしゃれカフェで作業をして(トビリシにはかわいいカフェが山のようにある)、美容室で髪を整えて、ホテルに戻る。完璧な一日である。
今度は、女性スタイリストではなくキムが私を迎えてくれた。彼は洗髪台に案内する素振りを見せず、その場に立ったまま不穏なことを言った。
「問題がある」
「どうしたんですか?」
次の瞬間、キムは衝撃の一言を放った。
"No water."
小学校レベルの英単語で構成されたこの一言が何を意味しているのか一瞬分からなかった。
ノー、ウォーター。トビリシに滞在していた友人から聞いていた、時々発生するという例の断水。トビリシの断水情報サイトを調べると、やはり今日の日付でお知らせが出ていた。ホテルよりも先に美容室で断水を経験することになった。
それでは、今日の予約はキャンセルになるということなのか。予約せずにお昼に施術してもらっていたのならと天を仰ぎたくなった。私がカフェでウキウキ作業している間にシャンプーとトリートメントの機会が失われてしまった。
だが、キムは落ち着いた様子で、私を追い返そうともせず、
「でも大丈夫。君の髪は洗えるよ。ちょっと待っててね」
そう言って私を残してお店を出ていった。
まさか、ミネラルウォーターを買いに行くのではないだろうな。楽しみにしていたのに、急に逃げ出したくなってきた。
しばらくするとキムが戻ってきた。
その手には黒いバケツ。バケツいっぱいに溜められた水がゆらゆらと揺れていた。
案内されるがまま、キムが調達してきた水が冷水である可能性も考え、修行僧のような心持ちで洗髪台に頭を乗せる。だが、頭を包み込んだのは、予想に反して、とんでもなく気持ちいい温度のお湯だった。わざわざ沸かしてくれたのか、そもそもどこから汲んできたのか、何もかも謎だが、過去にも何度も断水中に施術したことがありそうな慣れた対応だった。
キムはバケツからお湯を汲み、髪をジャバジャバ洗い始めた。フェイスガーゼはなかった。お湯がジャバジャバ顔にかかり、耳に入った。まあこのあたりは想定の範囲内だ。海外で日本と同等のサービスを期待はしていない。顔や耳にかかった水を手で拭っていると、頭皮がなんともいえない感触に包まれた。
それは、モコモコとした泡だった。トビリシに来て初めて感じた泡だった。それも極上の。普通のシャンプーは硬水で泡立ちにくい。私が自分でシャンプーした時の泡を形容するならば、せいぜいパチパチである。今まで生きてきてここまでモコモコ泡のありがたみを感じたことはなかった。
私からはキムの手元が見えないので実際のところは分からないが、シャンプーとトリートメントのようなものをそれぞれ2種類、たっぷり髪につけてくれていた。
施術時間は約30分。夢心地だった。
ブローをする前に、キムが「コーヒー?それともワイン?」と尋ねた。
美容室で出てくるドリンクがコーヒーかワインの二択なのか。いくら有名なジョージアワインでも美容室で出会えるとは想像していなかった。お酒はほとんど飲まないし、もう夜なのでコーヒーも遠慮したいところだ。
「お水もらえますか?」
日本の美容室にいる時の感覚で反射的にそう言った私は「ああ!!!」と口を押さえた。
キム「水はないんだよ!!!!!」
関西人の私も拍手を送りたくなる爽快なツッコミだった。
「そうだった!!!お水なかったんでした!!!ハハハハハ」
「これがジョージアさ!!!ハハハハハ」
海を越えてコラボしたキムと私、そして断水が生み出した奇跡のショートコント"No water"であった。しばらく、隣に座っていた女性スタイリストも含めて三人で爆笑した。
結局ワインもコーヒーも頼まずに椅子に座ると、キムは丁寧にロールブラシを使いながらブローを始めた。日本では、頭を傾けてほしい時に「ちょっと下向いてくださいね〜」といった声かけがあったりするが、私の頭を傾けてほしい方向に直接押すスタイルだった。フェイスガーゼも声かけも当たり前ではない。
しばらくしてキムが「完了!」と言ってドライヤーを止めた。
鏡に映っていたのは、ここ数日で失ってしまったキューティクルを完全に取り戻した髪だった。感動で思わず拍手した。このお店のシャンプーを買って帰ることにした。
レジに向かう前に、お昼に訪れた時から気になっていた質問をキムに投げかけてみた。
「ヒップホップが好きなんですか?」
店内にはゴリゴリのヒップホップが延々と流れており、私が椅子を立ち上がった時のBGMはJAY-Z feat. Rihanna & Kanye Westの"Run This Town"だった。壁にはフードをかぶりマイクを片手に持つラッパーの絵が掛けられている。「いやぁ僕はハウスの方が好きなんだよね」などと言う余地のないヒップホップ空間だった。
私の質問に対して、彼は「Hip-hop…。大好きだ…。」と噛み締めるように答えた。自分が経営する店舗の壁にラッパーのイラストを掛けるという行為から、ヒップホップは彼の価値観や信念に大きな影響を与える音楽なのかもしれないと想像する。
私も日頃から広く浅くヒップホップアーティストの曲を聴いているので、気の利いた会話を続けたかったが、「異国の美容室での断水」というハイパーイレギュラーシチュエーションの中で思考がうまく作動せず、アーティストの名前がまったく出てこなかった。数秒が経過し、空白の思考の中に突然Will Smithの"Miami"が浮かび上がり、特にファンではないのに「私はWill Smithが好きっすね…」と言ってしまった。キムは「ハッ…。」と苦笑したので彼のツボではなかったのだろう。しかし「君が聴きたければ、今Will Smithかけてもいいよ」と言ってくれた。苦笑はしても否定はしない、ピースフルな対応だった。
購入したシャンプーを抱え、清々しい気持ちで街に出た。旧暦の新年を迎えたばかりのトビリシの街はイルミネーションで輝いていた。
翌朝、出かける準備をしながらMiamiを流した。これからMiamiを聴くたびに凄腕美容師兼ヒップホップ愛好家のキムを思い出すだろう。次にお世話になる日までにヒップホップアーティストのことを勉強しておこう。