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命の値段について
6、23 15:30 大久保スタジオM
MC donation
スタジオでのミニライブのご案内。
楽しくやろうぜ!だけでは無い二つのグループ。
テーマを共有したい!1というのがこのイベントの主な趣旨。
出演者
Takashi Umemiya & the Comrades
KONIMINO
Official Homepage of the Reggae Band "Takashi Umemiya & the Comrades"
https://www.takashiumemiya.net/
一つは私のユニットKONIMINO
ピアノ加藤実とギターボーカルの私。
社会の問題のほとんどは我々個々の意識から始まっているという主張をしている。
そしてもう一つはうめちゃんと同志達。
私が出会った頃彼らは、フィリピン、アメリカ、日本、フィンランド、フランス、香港出身のメンバーを擁して活動していた。
メンバーの帰国、家庭事情などがあり、現在はフィリピン、アメリカ、出身のメンバーで活動中。
大久保でのセプコン!このところ毎年うめちゃん達には登場してもらっている。
日本で暮らす彼らはある程度の日本語を話すが歌詞として歌うには難しさがあるのだと思う。
現在も主にフィリッピンを含め英語圏に向けてネット上で発信をしている。
リーダーのうめちゃんについて少し紹介したい。
うめちゃんは日本人の父とフィリピン人の母を持つ所謂ハーフだ。
フィリピンでは日本に対する反感を持つ人達から差別を受け、日本ではアジア人差別を受けたという経験を持っている。
だが単にその事を個人的な遺恨としているわけでは無く社会構造の問題として歌っている。
経済、情報に起因する問題として。
その観点から現在報道されている戦争についても歌っているが英語を理解出来ない私の様な日本人にはハッキリとは伝わらない。
結果的に踊れる楽しいレゲエバンドとしてだけ認識され勝ちだ。
話は少し逸れる。
若い人たちにとってラウドな音楽は大概フラストレーションを発散する物として機能する。
若い頃の自分にとってもそうだった。
だが発散出来てしまうと問題意識が薄れ解決に至らない!という側面もある。
日本にも古くからある祭、無礼講と似たような物だ。
権力者もその事をよく理解し庶民にガス抜きの場を与える。
デモや言論の自由、あるいは選挙、
これらが実質的に社会を変える程の力を持たない事に我々は気付いている。
しかし、そこに希望があると信じ込む事で日々のストレスを発散しているのだとしたらどうだろう。
少し音楽に話を寄せる。
アメリカを例にとると、奴隷だった黒人達が土曜の夜に歌い踊り盛り上がる!という現象は理不尽な差別を自分達の力では変えようのない現実として認識し諦めた結果、せめてもの発散、ガス抜きとして機能する方向に発展した時期があったとも言われている。
根本的な問題から目を逸らし明るく楽しむ方向に進化したとも言える。
基本的なテーマは辛い日常の中に楽しみを見出す物が多い。
勿論ビリーホリデーのストレンジフルーツの様にその対極も存在はする。
現実を変える意思がある場合、楽しく盛り上がる!というタイプの集会にはならないだろうと想像する。
諦めが楽しさを求める!とも言えなくない。
それに比べイギリスのパンクバンド等の盛り上がりは暴力的な印象を受ける。
勿論暴力的な面を良しとするわけではない。
要するに闘う気がある諦めていない!と言う事に思える。
しかし多くの場合、差別的社会システムを受け入れ腹を括った人達が生まれる。
変える事が出来無いと考えるなら必然とも言える。
次の方法はどうやって上位の階級に取り入るか?になるだろう。
彼らのニーズを満たす事で富と地位を確保しようと考える。
アメリカ黒人達の場合、芸能やスポーツ、エンタメの世界は比較的間口が開かれていた。
白人達しか入れない場所でステージを持つ事が出来れば他の黒人達より一つ上の階級になる。
少なくともそう思える。
彼らは白人達が喜ぶ黒人を演じた。
分かりやすく日本だとテレビに出演する事で一つ上の階級に属した気分になる人達が居るのも、また同じ事だ。
政治家もこれと全く同じ感覚なのかも知れない。
彼らは社会構造を変える気など全くないだろう。
なぜなら、その地位は現存する差別的な構造の上に成立している事を理解しているから。
話はまた別の方向に逸れる。
日本社会の底辺に居ながら持ち続ける違和感を引き起こし、今も引き摺ったままの個人的な古い体験について。
東京に来て間もない頃 40年以上前の話、
ハコバン(キャバレーなどで専属演奏するバンド)の欠員が出た時、代打的に穴埋めするアルバイトをしていたことがあった。通称トラというやつ。
多分歌舞伎町だったと記憶しているが同じビルの中に生バンドが出演している店が幾つかあり、ビルの従業員やバンドマンが使うロッカーが並ぶ部屋があった。
バンドたちが使うロッカーの列の一番奥にフィリピン人のバンドのロッカーがあった。
ロッカーに案内してくれたバンドのメンバーが、奥はフィリピンバンド!といかにも差別的な態度で説明した。
確かに奥の辺りは汚れ荒れていたと思う。
何回めかそのビルに行った際、フィリッピンバンドのギタリストと出会い、挨拶を交わしお互いの話をした。
なぜ日本に来ているのか? 賃金の話、例えばエフェクター一個の値段の話など。
彼は日本語も英語も母国語タガログ語も話すしギターのスキルも当時の自分達よりずっと高度だったと思う。
だが待遇的には差別され自国での賃金は当時多分日本での7分の1位だと聞いた。
為替という物が人間の時間の価値を決めている? 生まれた国によって起こる人間の価格差?
日本人であることはラッキーな事だったかも知れないが、その事に何の疑問も持たない周囲の人々に少し失望しつつ彼には申し訳ない気持ちになった事を覚えている。
たしか使っていないコンパクトエフェクターをあげたと思う。幼い頭でもそれが何の解決にもならない事は分かっていた。
その後も彼とは何度か話をしたが今はもう名前すら覚えていない。
暫くすると、その問題意識も自分の日常の中で埋もれて行った。
それより何年か後だと記憶しているが、当時、割とよく行っていたステーキ屋さんで働いていた通称ヤマちゃんと呼ばれるネパール人と出会う。
当時はネパールの人も少なかったように思う。
彼は日本人と変わらないレベルで日本語を話す。割と親しくなったある日、彼がこんな事を言い出した。
「あなたはネパール人と日本人が殺し合った事を知っていますか?」
恥ずかしながら全く知らなかった。それどころかネパールという国がどこにあるのかさえ知らなかったと思う。
彼の話はこうだ。
日本とイギリスは戦争をしていた。イギリス軍はネパールの軍人を雇った。
理由はイギリスの若者一人が戦死した場合の補償金額とネパール人数十人のそれとが同等であること。
要するにイギリス人一人の命の値段でネパール人数十人の命が買える!という話。
ネパールの人達は日本に恨みがあるわけでもなく、家族を養う為に傭兵となって戦ったのだという話。
ここで再び人の命、生きている時間の金銭的価値の差別という問題に出会ったわけだ。
情けない話だが若い私は衝撃を受けつつも、この重大な問題意識もまた日常の中に埋もれさせてしまった。
しかしそれでも何年かに一度、この記憶を呼び起こす事件は起こったし今も起こり続けている。
戦争というのもはどんな場合でも容認出来ることではない。
とはいえ、持てる者が手放さない限り戦争は無くならないだろうと感じている。
どんなに声高に戦争反対、平和を叫んだところで
命の値段の格差を無意識にでも容認している以上戦争は無くならないのだろうと想像する。
投資、FX それらが引き起こす格差、差別、声高に戦争反対を叫びつつ自分たちの基本的な立ち位置、その仕組みを変えようとはしない。
豊かな国と貧困な国、この大きな違いは人の命の価格の違いとも言える。
それは生産性?成長?の為に機能しているのだと言う。
貧しいと言われる国であっても、その首長、為政者は大概豊だ。
国民の命と天然資源を先進国?一つ上の階級の国?に売る事で、自らは大きな富を得ることが約束されている。
一つ上の階級?それは階級差があるから成立する。階級差とは命の値段だ。
悲しいことに富める国、貧しい国、どちらもその差別化システムを変える気はない様に思える。
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