お笑いの新様式「インターネット・お笑い」
はじめに
笑いの“様式”について
様式とは、ある範囲の事柄についての共通項や表現形式のことを指す。建築で言えば「ビザンツ様式」「ロマネスク様式」、芸術で言えば「ルネサンス」など、文化について時代の潮流そのものを指す言葉と言っても良いだろう。
そしてそれは、お笑いというジャンルにおいてもあると思っている。本投稿ではひたすらにそのことについて書こうと思う。思い付きで書き始めた自論である上、学が無いゆえ駄文になること必至なので、何卒ご容赦ください...。
「松本人志的笑い」論があるならば
笑いというものには風潮や流行りというものがある。その変遷を明確に分類することは難しいが、「お笑い第○○世代」なんて言葉が生まれたり、「漫才ブーム」だとか「賞レース時代」だとか、なにかとその時々の流行り廃りがあることが見て取れる。完全に笑いの歴史を辿るというのは不可能だが、戦後の物であればドリフターズや萩本欽一がトップに立ったコメディの時代や、横山やすし・西川きよしらに代表される漫才師が「芸人」として認められた漫才の時代など、「あっただろう」と断定できる“様式”はある。
そしてその中で、今現在多くの日本人が唱えるのが松本人志的お笑いの時代である。「面白ければいい」の精神や「伝統の破壊」、「発想力重視」など、数々の特徴を持つとされるこの様式は、一般に現代の日本人の笑いの土台を作ったと言われるものである。
しかし、果たしてそれは未だリニューアルされていないだろうか。未だ日本人の笑いの様式は、松本人志というカリスマ誕生から何も変化していないだろうか。僕の答えはNO。たしかに、ダウンタウンのように分かりやすく「天下を取った」「時代を作った」笑いのスターは誕生していないかもしれない。しかし明確に日本人の笑いのセンスは変化している。これは当時「面白い」とされていた映像と今流行っているお笑いを見比べれば明らかなことだ。この変化の理由はなにか。その大きなファクターが「インターネット」という存在だと考えたのである。
その特徴
冷笑
「スベっている」という言葉を流行らせたとされる松本人志にも言えることではある。が、インターネットの冷笑とは、基本的にコンプレックス由来である。インターネットで笑いを作り上げてきた人たちが虐げられる側の人間中心だったことに由来するのかもしれない。古くに掲示板や動画サイトで形成された多くのノリにその側面を見ることができる。晒し上げ、レスバトル、恋愛叩き、etc…。そして今なお、(「リア充」「DQN」といった言葉は死語になったと言えるものの、)その風潮は止んでいないというのが正直なところだろう。「人を馬鹿にして笑う」ことが正義・正当となりやすいのがインターネットという場なのである。
また、やはりこういった冷笑の台頭の原因として時代の影響というのも無きにしも非ずだと思っている。僕が物心ついてからの政治不信、経済状況などを見るだけでも、日本全体に諦観の精神が根付いてしまったように感じられる。インターネット・お笑いは、「熱くなるな」の価値観を現実にまで拡大しているんじゃないだろうか。
焼き回し
淫夢語録からTikTokまで、みんなして脳が溶けたのかと思うほどに同じネタを擦り倒している。そもそも「ネットミーム」「ネットスラング」なんてものも、内輪を共有するために生み出したノリを文化として昇華したに過ぎず、一時情報以外はその焼き回しに他ならない(なんならただの漫画のコマの切り抜きだとかドラマのセリフだとか、そういったことあえある、むしろ非常に多い)。
芸事の世界とは違い演者と観客が区別されないインターネット・お笑いの世界では、全員が演者側に立ったことで、創造する能力のない人間が発信者になってしまったことが大きな要因なのであろう。この焼き回しも「インターネット様式」における一つの重要な特徴と言えるだろう。
指を指しての批判
先ほどの冷笑と少し被る面があるが...。「冷笑」がソフト面とするならば、「批判」はそのハード面、精神性と実際の行為といった違いがある。
「炎上」なんて概念を生んだのもインターネットである。「こいつは面白くない」「こいつは正しくない」に対して、(婉曲的でなく)直球で晒し上げたりすることがよく目に付くようになった。お笑い界でも粗品やウエストランド、永野といった“毒舌芸”がインターネット中心に旋風を巻き起こしているし、インターネット上で一般の人が行っている誹謗中傷に関してはもはや社会問題とされている。この傾向が昔より強いことは明らかだろう。
ニコニコ動画で「例のアレ」とやらが爆発的に流行った時があった。ああいった“悪い”お笑いは、確かに面白くてもよほどの覚悟を持った人間(つまりは顔や名前を出し活動する人間)でないとやりにくい。インターネットという匿名のままに好き放題“悪い”お笑いに参加できるツールが生まれ、人間の持つ嗜虐欲をある種正しく満たすことができるようになったのではないだろうか。
強すぎる当事者意識
これは「笑い」というよりかは「コンテンツ、カルチャーの楽しみ方」に現れた傾向とでも言うべきかもしれない。
インターネットが生んだ社会は、“裏側”の情報が簡単に見える社会だ。それにより、その裏側までもコンテンツの一部として楽しむことが当たり前の接し方となった。そのままの流れで、必要以上に倫理観を押し付ける風潮に歯止めが利かなくなっている。芸能の世界が常に地続きになったことで、リアルの人間が関係するコンテンツに対しての外在化ができなくなってしまっているように感じているのだ。
これが、マスのメディアでコンプライアンス的な規制が過剰になっていたり、またその一方で一部インターネットではその現状に中指を立てるように過激な言動が目立っていたりするという、両極端の笑いの風潮の変化に理由付けをする。インターネットという様々な正義の押し付けが行われる場に、お笑いという一つのまとまりは対応しきれなくなっているように感じている。
では、批判的になるべきか
私個人としては、(このnote含めにはなるかもしれないが、)「インターネットの言説、くだらねーな!!!」というのが正直なところであり、笑いに対して負の影響があるのは否めないというのが正直なところだ。まぁ、上の書き方からして多少否定的であることが隠せていない。
ただ、この変化は悪いことばかりではないし、また変化は常に起こるという認識は必要だ。自分の話をすれば、毒舌芸は大好物だし、正直ベースのコンテンツ作りが流行るようになったのもインターネットのおかげだろうし、そもそもインターネット上のお笑いも普通に好きだし…。「インターネットの悪影響!」みたいなつまらない主張をしたいわけでは全く無いということだけはここに書いておきたい。
あえてこのように問いを立てて答えるならば、この自論に過ぎないインターネット・お笑いが本当のものになった時、私はその変化を批判しつつ受け入れていくことになると思う。また私が批判したとて、社会全体としてそうなっているのだから仕方がない。ただそれに対して今日のように疑うことはやめたくない。「漫才なんて芸じゃない」といったコメディアンがいたように、「松本人志の笑いは面白くない」と言う脳科学者がいるように、「様式」は常に批判されるものなのだ。私もそういう「変わった人」になるのかもしれない…。
おわりに
ここまで読んでくださった方がいるとするならばありがとうございました。またいくつかの投稿を読んでいただいている方には、(なんか書きづらくなってしまって)普段と文体も変わってしまい申し訳ない。ちょっとした考察?みたいなのを思いつくままに書き連ねるのには敬語を外した方が書きやすく…。
最後にこれらはあくまで自分が思っている「感想」に過ぎないということをもう一度言わせていただいて、オシマイとさせていだきます。
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