032\\\ 呼 吸 法 で 踊 る
■■今回の記事は《呼吸法で踊る》をテーマに書きます。ぼくの場合は、どんな動きでも、純粋な「踊りの動き」ではありません。外からぼくの動きを見ていてくれて、観ている側が「踊り」と感じてくれたとしても、動いているぼくの方では「呼吸法」として動いているのです。
それなら、身体を動かす上で、「呼吸法で動く」と「踊りとして動く」との違いとはなんでしょうね?
それは文字通り、呼吸法を使って身体を動かしているか、踊り独自が持つ動きのスタイルやルールに沿って動いているか、の違いです。それだけです。大きな違いですが。
ぼくはある時期数年間、「踊り」を仕事としていたことがありました。あちらこちらのステージに呼ばれてはそこで「踊る」という仕事です。踊りの仕事を引退してからは、あるタレントスクールめいたところで「身体を動かすメソッド」をそこの生徒に教えにいったりもしていました。
さらにその後は、身体を動かすメソッドとして「太極拳」を個人セッションで教えにゆく個人事業をしていたこともありました。
踊りだったり、身体を動かすメソッドだったり、太極拳だったり、なんだかバラバラですが、共通するテーマは「呼吸法」でした。それは、身体のまわりにあるエネルギーとしての空気と、もっとつながる関係になりましょうということでした。
つまり「空気」という、地球の生命エネルギーを、身体の中にに取り入れては圧縮させ、それを体内で循環させる動きが「呼吸法」です。呼吸法の目的はここです。身体にエネルギーを取り入れることなのです。同時に、取り入れながら動くということでもあります。
踊りの仕事をしていたころに《動きのベースとなるもの》として身に着けていたのは《太極拳》でした。ぼくにとって太極拳は、不思議であやしい「踊りのメソッド」でした。
それは、ぼくの周囲の仲間たちも同じようなこと(太極拳やそのほか神秘系ワークなど)を踊りのベースとしておこなっていたみたいです。グルジェフやオイリュトミーというのも人気でした。
ぼくの場合は、太極拳の他に、モダンアフリカンダンス・バリ舞踊・アルゼンチンタンゴ・サルサ・気功ベースのチャイナバレエ・合気道・合気柔術・空手、或いはマイナーで無名な武術、ある個人が作った創作的な武術、個人が創作している前衛舞踏のトレーニング、なども、わずかな期間ずつではありましたが、学びに行っていたことがあります。
■■その頃の時代の太極拳は、まだ東京にはいくつかの日中親善交流的なクラスしかなく、電車に乗って九段下の武道館にまで学びにいったのを覚えています。
その他に、そのような伝統的太極拳ではなく、もっと前衛的で自由スタイルの太極拳の道場も見つけました。その道場とは、ぼくの踊り系の仲間が見つけて来たもので、場所は渋谷。朝の時間のバレエスタジオをレンタルしておこなわれていた練習でした。
その前衛的な太極拳とは、形や動く順序をあまり重要視しない、形の無い太極拳でした。とにかく身体を緩めてチカラを抜いて、ぐにゃぐにゃなタコのようになるくらいまで、チカラを抜く運動をさせられるのです。
その運動とは、とってもシンプルです。試験管に入れた硬い何かを水と混ぜて振って溶かしてゆくような原理の運動です。全身を試験管のように、ある一定の法則で動かします。軽く膝を落とし、腰をねじりながら、両腕を振りながら、ぶるぶる・ぶるぶると、左右上下螺旋にと、身体を振るだけの運動です。
その運動のことを、そこでは《振り》と呼ばれていました。
立って、チカラを抜いて、身体を左右に上下にねじりながら振ります。両足先と両膝先は同じ角度で合っていなければなりません。ゆっくり、速く、移動しながら、その場の位置でも、《振り》をします。
ゆっさ・ゆっさと、身体で《振り》を続けてゆくと、全身がだんだん「砂」のような「水銀」のような流動質に変わってゆきます。今まで硬かった固体が《振り》によって粒になったり、流動体的になったり、更に細かいものに変わってゆくのです。
その動きをしながら、時々は太極拳の「型」の動きも加えてゆきます。その時は、太極拳のあのスローではなく、足の裏で地面を踏んだ反動のチカラで全身が弾むように動きます。スローではなく、リズミカルに動きます。
《振り》がうまくなって、身体の全身内部の振動数が細かくなってくると、地面からのバネのような反動で両脚や胴体や両腕が動き、その反動力が指先に伝わります。全身でドリブルをしているような、ムチを振っているかの原理の動きです。
その動きは、外からただ見ているだけではわかりませんが、全身のチカラが指先に集まります。ブル~ンと《振り》のリズムでチカラが指先に集まりますすと、それが(パンチとして)軽~く当たっても、重くて痛~いのです。ズズ~っと、触れたところから、内部に浸透してくるような、嫌~な衝撃の感じでした。
■■始めてその道場にぼくが見学でたずねたとき、「太極拳ってどういうのなのですか?」と先生に質問をしました。すると、先生(身体は細目で背もそんなに高くはなく、色白なハンサムな先生でした)は、軽く触れる程度にぼくのおなかあたりに軽く握った手を乗せて来ました。膝のあたりにも、先生の足の裏を軽く乗せて来たのです。
その時の「異常な重み」というのは今でも忘れられません。押し込んでくるわけでもなく、無理に重くしているわけでもなく、薄ら笑いをしながら、軽く触れてくるだけです。その時は、この世のものではないように思えたのです。怖いというより、神秘的なエロティックな重みでした。
《振り》の練習がだいたい終わると(だいたい1時間くらいやっていました)、その後は「相対練習」として、ふたりで向かい合い、軽くお互いの両腕を触れた状態からの「スパーリング」をするのです。
お互いの両腕を触れたところから動くので、近距離スパーリングです。ボクシングのように一歩離れたところから間合いに入っていって打ち合う、のではありません。ノーモーションで、予備動作は無しで、その場から打ち出すのです(ゆっくりですが)。見ていても、それはぜんぜん迫力の無い、お遊戯の押し合いのようなものです。
しかしその動きが(スローなパンチが)、身体のどこかにちょっとでも当てられると(触れられたり・押されたり)、もう、吐き気をするような重たい痛みです。すぐさま戦意喪失になってしまいます。硬い筋肉が当たったのとはまるで違う、あやしい浸透力が恐怖でした。
当てられてダウンすると、そこでストップウォッチは止められ、再び立ち上がって続けない限り終了にはなりません。純粋3分間のスパーリングです。そこでは「チカラを抜いて打つ」ことの恐ろしさを、そんなやり方で学んでしまったわけです。
《呼吸法で踊る》の話しをしていたのに、先に《太極拳の練習》の方の話しを書いてしまいましたね。それには理由がありまして、先ほどから出て来ている《振り》というのが、実は、踊りの、動きの、原点だからなのです。
どうしても先に《振り》のお話しをしてゆかないと、ただ「呼吸法」と言っても伝わらないのです。それに、呼吸法と言っても、何回吸って・どのくらい止めて・どうやって吐く、というようなヨガ式の呼吸法は、ぼくはやっていないからです。
《振り》を続けていって、身体の粒子が細かくなると、「息をしていない状態」のようになります(無息の呼吸)。さらにそれを意識的に「息止め」というところにまで持ってゆくことで、さらに呼吸は圧縮される効果が生まれます。ぼくにとっての呼吸法とは、この「息止め呼吸法」なのです。
どうしても太極拳というと、あの、スローな、速く動きたいのを我慢しているような動きを思われてしまいます。吸いながら腕を身体に近づけて、吐きながら腕を伸ばしてゆく、というような呼吸法は、ぼくはやりません。だから、ヨガ教室などに通う人と呼吸についてお話しすると、ぜんぜん合わないことになります。
■■身体とタイヤはよく似ています。それは、どちらも「息が漏れたらそこで終わり」というところです。息止めをすることによって、体内気圧を高めて、身体の中の空気が地面にバウンドするような状態を作ってこそ、動く身体となります。
タイヤも、空気が抜ければただのゴムの死骸です。空気がしっかり入って気圧があるからこそ、速いスピードで走るクルマや着陸する飛行機の衝撃をクッションとして役に立つのです。
身体にも、強い気圧が必要です。息を吐く必要のある時は、それに理にかなった呼吸を使いますが、それについては022\\\にすでに書きました。
息止めをして、全身の呼吸(エネルギー)を漏らさない状態のままで身体を動かすというのは、なんだかとても禁欲的です。「溜め込む」というのはとてもストレスです。オカネは稼いでいいけど使ってはダメのようなストレスです。
そのあたりは「宗教的な感覚」でとらえてゆければストレスはありません。宗教には禁欲的なことが付き物ですからね。中国の《気》という概念はもともと信仰対処でもありましたから、確かに、禁欲的な宗教的なものは付き物かもです。
太極拳の、あのスローの動きは、全身にエネルギーが充満して、呼吸の気圧のせいで身体が浮いたようになった姿が、あの動きなのです。タイヤの空気と同じく、エネルギー入れば身体は浮くようになります。太極拳とは、わざとスローに動かす技術では決してありません。
あのスローの理由は、身体にエネルギーが充実した結果の姿だと理解してください。ですから、そうなった人の身体を触れてみると、鉛のように重たいのです。振動数が細かくなって、まるで砂鉄や水銀でも流れているかのような重みです。
まったく身体にエネルギーが無いのにスローにやっても、ただ脚が辛くなるだけかもしれません。
お断りしておきますが、ぼくが知っている「太極拳」というのは《振り》を中心にしておこなわれるこの道場独特のものが95%です。他の道場にも太極拳を学びに行ったことは何度かありましたが、その時はあくまで「型」を学びにだけでした。ぼくにとっての太極拳は《振り》の太極拳なのです。
今はもう《振り》の太極拳の道場はありませんし、先生や仲間と会うことも出来ませんが、思い出してみると、その道場の中でのスパーリングはすさまじいものでした。全身のチカラを抜いて動くとこんなに狂暴になるのかと、信じられない動きでした。速いし、重いし、怖いし、でした。
まるで蝶のようにすいすいと動いては相手の身体に貼り付き、ノーモーションで重たいパンチを出してきます。一歩入って勢いで打つような格闘技的な動きではありません。腕が触れた場所からその場予備動作ナシで浸透打ちをしてきます(ぼくにはとてもそんなことは出来ませんが)。
極めて陰気なスパーリングといいましょうか、みんな薄笑いをしながら、優しい顔をしながらあの動きですから、あやしいですよね。
ぼくの知ってる太極拳とは、この《振り》がすべての原点です。《振り》がうまくなればスローな動きにもなれます。うまくなるまでは速くもなくスローでも無い中間の速さで《振り》を練ってゆきます。
■■きっと、この《振り》というスタイルで動く太極拳は、他には無いと思います。もしかしてそれは「太極拳ではない」のかもしれません。しかしそこの会長も指導する先生も、台湾から来た本場の人から学んだとは言ってましたが、あまりぼくは細かいことは気にしません。
とにかく《振り》は、素晴らしい練習法だと思います。あのスパーリングさえもっと穏やかにやってくださればですが・・・(笑)
良い《振り》を出すにはやはり呼吸が必要です。呼吸が浅いと《振り》が硬いのです。呼吸は、身体を緩めるためにおこないます。しかしここで矛盾が生じます。それは、深い息とは「息をしていない状態」を言うものだからです。だからその道場では「呼吸法なんて必要ない。動きに合わせて呼吸なんてしてどうするつもりだ?」という程度です。
身体の中に呼吸を蓄えて、息を漏らさないようにして、体内の気圧を強めます。気圧が弱いとパンクして空気が漏れたタイヤみたいになります。そのためには、呼吸法などと言っておきながら矛盾いたしますが「息止め」という技法が必要です。(息止めとは、吸った息を止めて漏れないようにすることで、始めから吸わない息止めではありませんからね)
身体の中で《気のエネルギー》を膨張させたり収縮させたりするには、息は止めておかないと、ダメです。息が漏れてしまうと収縮と膨張は出来なくなるからなのです。
呼吸法に「息止め」をくわえて、それによって気圧が強まり、そこに《振り》をかけて動きます。しかしここでまた考えてみてください。通常、息止めなどをしていると、身体は動きません。誰でも、息を止めれば、全身が緊張するのが当たり前です。
息は止めながら、しかも《振り》のあの動きを。地面から弾むようにリズミカルに動くことを。またここで矛盾が生じます。エネルギーが圧縮されて気圧が高いということは、硬い身体になっている、ということにもなります。
《振り》で十分に身体のチカラを抜いても、このあたりでチグハグな難問を突き付けられます。それでも、自在に身体を動かすことが出来るためには、もうひとつ「第二の工夫」が必要となります。
《振り》とは、身体を振ってゆくことで粒子が細かくなって、体内が流動化するようになります。しかし、これが出来ても(出来ただけでは)、まだ自由には動けません。
それには、もうひとつ別の、「第二の脱力」の必要性が出てくるのです。もうひとつ別の第二の脱力? なんだーそれって? 矛盾の中に、また更に面倒なものがあらわれます。《振り》だって脱力の法なのに。
スパーリングをしている最中でも、先生はしきりに「チカラ抜けー」「チカラ抜けー」とハッパをかけます。チカラを抜かないと(パンチが)効かないぞーって・・・です。
しかし通常、身体からチカラを抜いてしまうと、立つことも歩くことも出来ません。それでも、チカラを抜けと・・・。
様々な《身体を動かすメソッド》として、この「身体のチカラを抜く」というものほど奇妙で不思議で不条理なことはありません。
ぼくのまわりにいる《身体を動かす》人々に、身体のチカラを抜く、という話しをして、ちゃんと伝わったことがほとんどありません。というか、身体からチカラを抜く、ということに関して誰も「信じない」のです。
そんな・・・、身体からチカラを抜いて、どうするんだ・・・、と言わんばかりでなのです(笑)
■■《振り》は、確かに身体のチカラを抜く運動です。しかし、その効果とは、身体の粒子を細かくするということです。粒子を細かくして、振動数を細かくして高めて、硬い身体を流動性の身体に変換すること。
しかし、この《振り》で得られた身体をもってしても、それだけでは「動く」「動かす」ということには向きません。まだ、砂のような身体になれただけですから。《振り》で得られた脱力のことは、ここでは「第一の脱力」といたしましょう。
それでは「第二の脱力」とは? それは、「第一の脱力」とは真反対の、骨と骨の間のスキマの脱力です。これは《振り》では習得出来ません。太極拳の先生はもちろん出来てはいますが、他の道場生たちは出来てはいませんでした。
いわゆるチカラを抜くという、特有の「だら~」「ぐんにゃ~」の抜くなのです。だから、道場生のみなさん動きはのっそりしています。それでも(パンチが)当たると地獄の重みはやって来ますが。
《振り》をすれば、粒子の振動数は高まりますので、エネルギー的にはふんわりして浮いたようにはなります。エネルギーは下に向かわず、上に浮いて昇るのです。しかし「踊り」には向きません。まだ・・・。
これで踊るとすると、すべてがあのスローの太極拳のような、いかにも東洋的というか、メロディー感はあってもリズム感が無いといいますか。グルーブ感とキレは皆無です。ずーーっと、だら~です。
そんなもの、観ていると眠気を誘うだけでしょう。飽きてしまいます。ピ・ピ・ピっという「刻む」ものがありませんから。しかし、「第二の脱力」を使えれば、完全に解消します。
それは、骨と骨の間のスキマの脱力です。わかりやすく言ってしまうと、ブルース・リーが持っていたあの「ヌンチャク」です。あれは、2本の棒をヒモでつなげてブルンブルンとテコの作用で振り回すことで、何倍ものチカラが発生する仕組みのもの(武器)です。
第二の脱力とは、骨と骨の間にスキマを作る脱力のことです。全身の骨と骨の間にスキマを作るようにして、そこに《振り》の震わせを加えれば、リズムやキレはグルーブ感があらわれます。全身がテコになりますから。
骨と骨の間のスキマの代表といえば「手首」です。手首のスキマが緩めば首筋も緩みます。首筋が緩めば全身の骨と骨の間が緩みます。そのまま足先あたりから《振り》の動きを出せば、全身がムチのように振動が伝わって動くようになります。
その状態で音楽と《振り》が同調出来れば、音源の持つ振動数や周波数は《振り》といっしょに乗りますので、「踊りに見える」というようになるというわけです。
道場の先生の動きは、本当に速い。全身をテコのようにしてブンブンと振り回しています。何か秘密がありそうでしたが、なんでも聞けば教えてくれるので秘密らしい秘密はなさそうです。1秒間にパンチやらキックやらが何発も飛んできます(笑)
■■ぼくは集団生活や武道的組織のタテ社会が好きではありません。太極拳で「強く」なろうとも、たいして思ってもいませんでした。その先生の動きや身体の感覚を見ていて、「強さ」もさることながら、東洋独特の不思議なエネルギー感といいますか、ツヨ柔らかいといいますか、抜け感のエロティシズムといいますか、筋肉を重視した身体ではない、「陰」の空気感を感じたので、そこにとても興味を持ってしまったのです。
ぼくも、踊りの仕事に入りますと2カ月くらいは東京から離れます。その道場からも自然に離れることになってしまいました。そして、自分独自に、動きやエネルギーの原点である《振り》を、もっと本当に自由に試行錯誤をしてゆくことを選んだのです。
その太極拳の先生は、静かに立っているだけで、見えないボールが身体の中でドリブルしているかのような振動が上下に弾いています。あの上下の全身の振動があの不思議な柔らかい動きをしているのです。
もう、その先生とは会えなくなってから何十年も経ちますが、今でもあの全身からの、不思議あやしい《振り》が目に浮かびます。
身体をボールに例えたら、パンパンに空気が入って、それが床を肉眼では見えない超スピードでドリブルしているかのようです。あんな動き、とうてい無理です。
あの《振り》のまま、音楽とシンクロさせることが出来れば、身体は、自然に音楽に導かれます。音楽に合わせて身体を動かすとか、呼吸に合わせて身体を動かすとか、覚えた動きを音楽に合わせて動く、なんてことは意識的にしなくても、身体はオートマチックに踊ってくれます。
全身のオーラが音楽を聴くようになります。
自分の《振り》のオーラが、音楽と同調して動いてくれる。それだけでいいのです。
■■ぼくの場合は、純粋な「ダンス」ではなく、どこまでいっても《振り》によって動きを起こさせる「息止め呼吸法」の動きです。
自分でもどうやって動いているのかわからない。身体が自然に動いている。それだけを求めています。《呼吸法で踊る》とは言いながらも、呼吸法で圧縮させた息を止めたエネルギーを使っています。呼吸の吸う吐くに合わせてなんか動いたりはしません。
もうあとは、好きな音楽とシンクロして、あとは勝手に、です。今はもう、人の前で踊ることはしていませんので、更に自由な感覚を練っています。
これによって、身体にエネルギーが流れ込んでくるようになることで、ヒーリングエネルギーになることがぼくの進む方向なのです。
《振り》は、ぼくの大切なセルフヒーリングメソッドになっています。
(※いつもぼくが講座の時に《振り身》と呼んでいるのは、この記事の中で書きました道場での《振り》のことです)
(※息止めという、いかにもまるで息は吐かないような表現をしていましたが、ある肝心なところではちゃんと息は吐いて使います。blowという技法です。それについてはここでは書きませんでした。022\\\には少し書いてあります)
★呼 吸 法 ワ ン ダ ー ラ ン ド///★