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035\\\『壁 ト レ』という練習(その2)

『壁トレ』の練習のお話し(その2)です。前回(その1)は026\\\ に書きました。ただし今回は、「もっと壁の中に入ってゆきたい」がアタマに付く、ディープな『壁トレ』の練習です。

自分のブロック(守りも含みます)が強すぎたり、攻撃的な人だったりすると、「壁」とはぶつかり合ってしまいます。自分の呼吸を何が何でも「壁」に入れようとしますので、「壁」の方から反発されてしまい、ついに「壁」の中には自分の呼吸が入ってゆけなくなるわけです。ノックしてもドアを開けてもらえない、寂しい『壁トレ』になってしまいます。

もっと身体のチカラを抜いて、自分の内側から「呼吸体」だけを抜き出して「目の前の壁」の中に入ってゆくことです。うまく「壁」の中に呼吸が入れた時は、とても柔らかい感じなのです。あの硬い「壁」ではなく、始めからドアが開いていたかのような「壁」に思えるものです。


「壁」とは、時に「世の中」です。本当にそう思います。「壁」の中に自分の呼吸を入れようとする練習は、世の中に入ってゆく練習でもあるかのように思えたりいたします。同時に「壁」は「画面」でもあるのです。それは、「壁」の中に自分のビジョンを描いてゆければ、「壁」の中に自分の世界をも描けるからです。

『壁トレ』とは、壁の前に立って、両てのひらを「壁」にやさしく触れることから始まります。強くビターーっ!と貼り付けるように触れてはいけません。てのひらと「壁」の間に少しだけスキマがあるかな?という感じの感触で始めます。

そしてそのまま、息を「ふわり」と吐きます。吐く時はオクチの中から吐きますが、イメージで言うと、オクチの中からエクトプラズムでも出すかのような感じです。さきほど自分の中から「呼吸体」だけを出して、と書きましたが、それがこのイメージです。中から「息の分身」を出すという感じでしょうか。

息を吐くという言い方があまりにも「普通の言い方」なので、『壁トレ』というのは単に「壁」に両てのひらを当てて息を吐けばそれでいいのだろうと思われてしまいがちです。ですので、息を吐くというのを、「自分の中からもうひとりの自分を出す」くらいに思ってもらえると、あやしく面白い練習にでもなるかなと思うのです。


とにかくこの世の中は「壁」ばかりです。「壁」を見ないようにすればするほどこの世の中は「壁」ばかり。渡る世間に出てくる鬼のようなものです。

極端に言ってしまえば、この世の中は、自分という存在以外は全部「壁」ばかりだと思っておいた方が良いみたいです。一見ドアが開いているように見えても、実は「開いたドアが描かれている壁」だったりいたします。

それでは、呼吸法を強く鍛えて、吐く息さえ強ければ良いのか? というと、そうも言えないものです。吐く息を鍛えて「壁」を破壊しようとしても、そんな人間の吐く息くらいのチカラで「壁」なんて壊れません。叩いてもダメですし、押しても引っ張ってもダメ。「壁」にそういう強引さは通じないものです。

それで、禅の世界ではありませんが、静かに、「壁」の前に立って、やさしく柔らかく、両てのひらを「壁」に触れてみましょう。自分と「壁」との距離を自分なりにイイカンジになるように調整してください。

丸いオーラがいいね

そうやって、「壁」と静かに向かい合って、ひとつになるように思うことです。「壁」は「壁」じゃない。「壁」とペアになってみる。「壁」の中に楽しい世界を作ってみる。そう思い描くことです。「壁」とは硬いものではない。硬く見えるだけなのだ。硬いのは「壁」の方ではなく、自分の方かもしれないと。

「壁」を敵対視しないで、向かい合ってひとつになる、という気持ちになってみましょう。眼の焦点も、「壁」の表面ではなくて、「壁」の中の奥の方に合わせます。柔らかくですよ。

「向かい合う」という感覚は、とても必要ですね。ただし「向かい合う=ひとつになる」ということですよ。「向かい合う=対戦者意識」になってはダメです。ひとつになれれば、そんな「壁」だってあなたのものになります。そのために、一旦は「壁」に負けてみる、というようなチカラ抜き感覚も思いうかべてください。つい「壁」に勝とうとするあまり、ぶつかり合いになるものです。


いつだったか、宗教について、ホンのちょっとだけ書いてみたのですが(ぼくは宗教はやりませんので深いことは言えませんが)、宗教とは「壁の中と向き合う教え」だと(ぼくはどこかで)とらえています。

「壁」=未知な世界。どうなるか分からない不安。もしかして夢もあるのかもしれない。見えない世界。行ったことのない未知。などなどです。

宗教での「売り」は、そんな「壁」の世界です。死んだらどうなるの? どこへ行くの? どんな死に方をするの? 行くところは天国なのか地獄なのか? そのような(神秘と恐怖を混ぜ合わせたような)「壁」を売ってきます。そして、良い「壁」の向こうに行けるための「条件」を売ってきます。

つまり、「みなさんは、壁を嫌がり、触れずに、怖がって見ないようにして生きてゆこうと見受けますが、誰の身にも”壁”の中に入ってゆく日はやがてやってまいります。ぜひ、生きているうちに、そんな”壁”と向かい合って”ひとつ”になれるよう、準備しておくのです」というのが宗教の商品だと思います。それは、かなり正しいと思います。


生きているうちに、本当に「壁」と向かい合って「ひとつ」になることが出来るようになれば、とてもハッピーなことなのだろうと思います。或いは、自分と「壁」との境界線が曖昧になって、コチラとアチラを自在に行き来出来るような意識の状態(サマーディー)に入れること。

自分には完全にコチラ側だけしか「無い(見ない)」と思い込んでいると、いつか「壁」のアチラにゆく時が来て困るわけです。人はどうしても「壁」よりもコチラ側の、この世の世界のことばかりで生きようとしてしまいますからね。両方の側を見れる「曖昧な境地」になれるのが楽なわけです。

そういう境地に入れれば、「生・老・病・死」という、誰にも抜け出られない「壁」からも、完全にではないにせよ、自分から向かい合ってひとつになってゆければ、そういう恐怖からも和らげられるのだろうとは思ったりするのです。

ぼくは『壁トレ』をしながら、こんなことなんかも、考えたりいたします。


『壁トレ』という呼吸法の練習の話しを書いていたのに、宗教やらあの世やらの世界なんかを書いてしまってますね (笑)。失礼しました。

話しを完全に『壁トレ』に戻しますっ! 『壁トレ』の練習をちゃんとやっている人は、「壁」のコチラ側に70%:「壁」のアチラ側に30%くらいの意識の比率かな?と思います。どうしても自分側のコチラ側の方への意識のかけ率が大きいですよね。

なかなか「壁」のアチラとコチラが半々の50%にはならないでしょうね。
そのあたりですが、意識のかけ率を、もっと「壁」の方に70%くらい置くようにしてみてください。するとなんだかいろいろなことが起きて来そうになりますよ。

もちろん、ずーーっと「壁」70%でなくていいのです。『壁トレ』の練習の時だけですよ。「壁」の方にもっと多くかけ率を増やせれば、この note の一番始めに書いた 《001\\\「外に意識のカラダを出す」という練習です》に近づいてまいります。


つまり、「壁」という障害物に入ってゆく呼吸法の練習を使って、自分の中から意識のカラダという分身を出すトレーニングにもなっているわけです。幽体離脱ではありませんが、自分の中から「何か」が出てゆくようになってまいります(うっすらの感じではありますが)。

この『壁トレ』は、宗教ではありませんが、「壁」と向かい合ってひとつになるところあたりや、「壁」の向こうに自分の新しい想いの世界を作る、というテーマだけ考えれば、どこか共通するものはあると思うのです。自分が教祖で自分が信者というたったひとりの宗教ですけれどね。

「壁」という、本来ならば障害物だったものが、自分の呼吸が行き来するようになることで、「壁」の中にももうひとつの世界があるような、そんな発想が出れば楽しいなと思うわけなのです。

★呼 吸 法 ワ ン ダ ー ラ ン ド///★

つづく


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