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レモンのスタンプ

3年ばかり前のこと。
となりの席の同僚に、
「あ~。度忘れしちゃった~。ほら、あの人なんていう名前やったけ?
檸檬の人。あの有名な~。あ~。思い出されへん~~。」
と、突然尋ねられた。

有名な檸檬の人?
それやったら、
「梶井基次郎?」
って、返事をしてみたけど、その同僚の目はテンに。

「へっ?何それ?ちがうちがう。
もっと有名な、ほら歌を歌ってる人で、ほら。
あ~~。米津玄師や~~~~~。」

米津が正解やったんか・・・。
私の答えは、すっかり昭和なのか。
でも、米津と梶井やったら、京都を時々うろつく私としては、梶井かなあ。
あっ、呼び捨てすみません。

同僚が言ってたのは、「檸檬」やなくて、「Lemon」やったんやな。
はあ~~。


梶井基次郎の「檸檬」といえば丸善である。
私が住む琵琶湖のほとりの町には、本屋が少ないので、京都に出る用事がある時は、本屋巡りをするのが大きな楽しみ。
特に、丸善は、大きくて、静かで、ゆったりと本を選ぶことができるので大好きである。
普段は、図書館で本を借りることが多いので、大きな本屋さんは、図書館では出会えない本にたくさん出会え、もうお宝の山そのもの。

そんな丸善やけど、たった一つ難点がある。
それは、めっちゃくちゃおしゃれビルの地下1階と2階にあるってこと。
つまり、めっちゃくちゃおしゃれなビルの中に足を踏み入れて、
エレベーターのところまで、歩かなくちゃならない。
エレベーターがなかなかやってこないと、めっちゃくちゃおしゃれな人々と同じ空間で過ごさなくてはならない。
別にドレスコードがあるわけじゃないけど、毎回、ビルに足を踏み入れる前には、自分の服装や髪形を確認する。
これくらいやったら、許される?
靴は、汚れてない?
抗がん剤で薄くなってしまった眉毛は、ちゃんと描けてる?
これを毎回やらなあかんのは、まあまあのハードルである。
とはいえ、結局いつも、落ち着いた色あいの壁に擬態するということで切り抜けるんやけど。
ちなみに、擬態する距離は、わずか5メートルくらい・・・。


そんなこんなことをしながら、昨日も丸善に行ってきた。
おしゃれ空間を擬態しながら通り抜けたら、あとは、じっくりと書棚を楽しんでいく。
新刊本の棚を満喫した後は、文庫本の棚を練り歩く。
練り歩くっていっても、ひとつひとつの棚の滞在時間が長いので、牛歩戦術みたいな練り歩き。
もう楽しいったらありゃしない。

そんな時、わたしの隣の棚の前で立っていた人が、背中に背負っていたリュックを下ろし、胸の前に持ち替え、ファスナーを開けだした。
そして、文庫本の前に、リュックの口を大きくひろげだす。


えっ?
万引き?
リュックに入れる?
どうしたら?
注意する?
店員さんに言う?
でも、その間に逃げられたら?
何の本をねらってる?
男の人?
腕力はそんな強くなさそう?
逆切れしそう?
どうしよ?
となりに私がいるのに?
私なんて、いないも同然なくらい弱っちくみえる?
ちょっと、それはひどいんちゃう?


とまあ、瞬時にいろんなことを考えた。
人って、一度にいろんなことを考えることができるんやな。
しかも、どうでもいいことも一緒に考えてるし。

その間に、隣の棚の前にいるその人は、
さらにリュックを大きく開け、
そして、そのリュックの中から文庫本を一冊取り出したのだ。


えっ?
入れるじゃなくて、出す?
自分の?
しかも、なんか読み込まれてる?


文庫本にはきれっぱしのような紙が挟まれていた。
紙が挟まれていたページを開いたその人は、棚に置かれていたスタンプを、ぎゅっぎゅっと音がしそうなほど力強く押しつけて、終わるや否や、一瞬で去っていった。

隣の棚。

そこには、梶井基次郎「檸檬」の文庫本が、何段にもわたって並べられていた。
新潮文庫と角川文庫。
装丁の風合いがまったく異なる文庫本が、それぞれに、ずらずら~と並んでいる。
圧巻である。
そして、一段だけ空いている棚には、レモンのスタンプが置かれている。
スタンプのそばには、
『梶井基次郎の「檸檬」を買ってスタンプを押そう』
のような(正確じゃなくてすみません。)、魅力的な誘い文句が書かれている。

どうやら、隣の棚の君は、
「檸檬」を読んで、自分の本にスタンプを押したくなったんやな。
そりゃあ、その気持ちはわかるわ。
もし、隣の棚の君が、観光客やって、京都にやってきて「檸檬」を買い、ホテルで寝る前に読み、心のうちに抱いたいろいろな思いを残したくて、スタンプを押しにきたんだとすれば、なんて素敵なことやろう。
いやいや。もしかしたら、「檸檬」にスタンプを押すために、わざわざ京都にやってきたのかもしれへん。
それも、また素敵じゃないか。

それを、いったい誰や。
万引き犯と勘違いしたんわ。
ほんま失礼やわ。
せちがらい生き方をしてるわ私。
隣の棚の君。
ほんまにごめんなさい。

わたしはといえば、「檸檬」じゃないけど、また別の素敵な文庫本との出会いがあり、レジで丸善のカバーをつけてもらった。
お金を払う時に、こんなに幸せな気分になれることって、あんまりないよなあ。

そして、おしゃれビルの1階に戻る前に、レモンのスタンプを押したよ。
もちろん。
やっぱり押さんと。

ちなみに、私が出会った本は、
梨木果歩さんの「やがて満ちてくる光の」。
この本を、読み返すときには、必ず「檸檬」を思い出すことになるんやな。

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