HIRUKOを観た夜

『HIRUKO』を観た夜、思ったこと。

 令和元年5月16日、西新井のギャラクシティでドーム映像作品『HIRUKO』を観た。

 私は映像を映像として、舞踏を舞踏として、芸術を芸術として読み解く土壌をまったく培ってこなかったから、地元でやってるってだけでそんな高尚な作品に触れて面白がれるのかちょっと不安だった。観て感じたことを簡単に言ってしまうと、最後どこまでも昇っていくエンドロールがとても凄いと思ったのと、あとはやっぱり正直よく分からなかったということ。

 けれどその道の人たちが面白がっているのだから、私も素人なりに面白がりたい。上映後のアフタートークを手がかりに、私の少ない引き出しを漁ってみて、そういえば私もこんなもの持ってたな、なんて思いながら引っ張り出したものを並べて面白がってみる。

 アフタートークを聞く限り、『HIRUKO』というのは「ドーム映像作品」であり、「〝身体〟を表現した作品」であるらしい。

 まずは「ドーム映像作品」としての『HIRUKO』を考えてみた。

 私は本当に素人だから、駅前のレンタル屋さんで適当に映画を借りてきて、ドームに映せばそれはドーム映像なんじゃないかなんて、そんなことを思ってしまうわけだけど、平面用に撮ったものをドームに映したらきっとちゃんと観れないんでしょう。たぶん。ということはドーム映像というのはドーム映像用に特殊な作り方をするんでしょう。分かりませんが。(笑)

 そんな素人のあやふやな想像を前提に、押井監督の「フレームの無い映像表現の可能性」みたいな話を聞いていて、私はVRゲームの世界を思い浮かべた。と同時に、プレステとセガサターンが発売されたときのことを思い出した。

 当時『FFⅦ』なんかのポリゴンにゲームファンが沸いていた。けれどまだ小学生だった私は何が凄いのか分からなかった。だってスーファミの『スーパードンキーコング』のほうが何倍も綺麗で何倍もスムーズに、すでに動いてたんだから。プレステやサターンのゲームのポリゴンが、スーパードンキーコングから劣化したものにしか見えなかった。やっとプレステ4くらいから感動するほど凄いと思うようになったけど。

 ドーム映像というのも、なんだかそんな感じに思った。フレームに収まった映画に比べたら没入感というのもあるんだろうけど、なにせ画質が悪い。ふだん綺麗な映像に慣れすぎてしまって、プラネタリウムの天井に映された粗い映像に、ちょっと「没入」までは体感しづらいなという感じがしてしまった。だからってゴーグルをつけてVR空間を体験するのと、みんなでその空間を共有する映画とはぜんぜん別物なのも分かる。分かるけど、やっぱりスーパードンキーコングを知ってしまっていたのと同じように、他の綺麗な映像を知ってしまっているせいで、ドーム映像にほんとうに没入するにはまだちょっとかかるのかなって、そんなふうに思った。

 それでもやっぱり、エンドロールが凄かった。フレームがない、ということがあの無限の奥行きを生むんだろうか。本当に、あのドーム空間に、無限を体感した。あれ、没入できてたのかな。(笑)

 ちなみに私は臨場感あるど真ん中の黄色い席を選んだ。追加チケットの床&クッション席が最高に羨ましいと思いつつ。小学生のとき学校行事でプラネタリウムを観にきたときも酔ったのを覚えているけど、大人になってもドームに入った瞬間ぐらっときた。それでもせっかくだからと真ん中に座ってみて、やっぱり最初の水流に呑まれるシーンですんごい酔って後悔した。(笑)

 じゃあ「〝身体〟を表現した作品」としての『HIRUKO』とは何だろう。

 アフタートークを聞いていると、どうもここで語られている「身体」というのは、来週私が会社で受ける身体検査の「身体」とはニュアンスが違うらしい。なんとなく聞いているうちに、私の引き出しの中から『バガボンド』がヒットした。

 「我が剣は天地とひとつ 故に剣は無くともよいのです」(バガボンドから引用)

 無刀。そういえば無刀と舞踏、似てる。(笑)

 人は身体を意識するほど、言葉にするほど、境界線にとらわれて、本質から遠ざかってしまう。けれど技は無限、表現は無限。天地とつながる内側の無限に、どこまで舞踏という芸術が近づけるのか、そういう挑戦なんだと、言っているんじゃなかろうかなと、バガボンドに当てはめて解釈してみた。

 とするなら観客は舞踏をどう観るかということだけど、観客のほうまで我執を捨てて、命がけの演者と一体になって内側の無限を感じろなんて言ったって、絶対無理。なんだけど、『HIRUKO』はそこに一歩迫った。ドーム映像を使うことで、観客を演者の内側の世界に引き込もうとしていた。演者の内側に触れ得る距離と視点を、ドーム空間に作り出そうとしていた。観客はどうしたらいいか。

 「一枚の葉にとらわれては木は見えん 一本の樹にとらわれては森は見えん どこにも心を留めず 見るともなく全体を見る それがどうやら…「見る」ということだ」(バガボンドから引用)

 アフタートークで押井監督が話していたのは、そういうことなんじゃないかなと思った。舞踏を題材にしたドーム映像作品を観たというよりは、ドーム映像を使って舞踏という芸術に触れた、というのが私の『HIRUKO』だったように思う。

 あとはシーン一つひとつについても分からなかったなりの感想があるけど、いちばん印象に残ったのは最上さんが魚の仮面をとるシーン。

 飯田監督が魚で死を提示したと話したのを聞いて、私の中で一時期ひどいトラウマだった記憶が蘇った。2004年の11月、私は大学二年生で、当時インターネットにイラクの首切り動画がいくつも上がっていたのを端から流し見ていったことがある。

 そんなもの見なきゃいいのに、見ちゃったからそれで私の中の無邪気が死んでしまって、バイキンマンにカバオ君が捕まるのを見ただけで、吐き気がおさまらなくなった。敵に捕まったら死ぬのだ。

 もうそんなトラウマは綺麗さっぱりなくなったけど、あのとき私は動画を見ながら、殺されていく人間たちを魚みたいだと思ったのを覚えている。テロリストに生きたまま首を切られていく外国の記者たち。声を出さず、ただ口をパクパクさせながら殺される人間を見て、私は魚みたいだと思った。

 最上さんが魚の仮面をとるシーンに、そんな強烈な斬首のイメージが、恐ろしい死のイメージが、あっけなく殺されてしまう命のイメージが、ぴったりと重なった。

 だから私が『HIRUKO』の舞踏から受け取ったイメージは、苦しみとか、無念みたいなものが強かった気がする。そんな風に言葉にしちゃうと、さっきまで書いていたことと矛盾するけど。(笑)

 そんなこんなを、思った晩だった。


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