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「哲学」とは何かと考えた

「ちいさな哲学者たち」2回目を観た。
幼稚園児が哲学をするドキュメンタリー映画。
恋愛や友達、死や人種について…
まとまりは無いけど、幼い子供の感性と思考に映し出される世界は
シンプルで真っ直ぐで本質的。


哲学のクラスを受ける彼らの言葉や表情を通して、
「考えること」って興味深いし面白いとともに、
疲れるし難しいし、楽じゃないよなって感じた。
無心に走り回る時間も大切だ。
それに、考えるためにはまず世界を感じることからだと思う。
たくさん感じて気づいて問いを立てて対処して、
頭の中は整理されていく。その個体の思想は整頓されていく。
どれだけ多く深く感じ取るか。
世界から感じた刺激は脳でつくる料理の材料。


哲学とは何だろう。
考えて、言葉にして出して、誰かと話す。
それは自身の脳の中で世界の定義をしていく作業に思える。
そうして生き方の方針を定める。
見つけた刺激にひとつひとつ、名前をつける。
どれをどう組み合わせたらどんな料理になるのか。
それは自分に何をもたらすのか。
他者が食べたらどうなるんだろう。


哲学はゲームのルールづくりにも思える。
人はみんな別々のゲームをしているのだと、私は考えている。
それぞれの脳の中にそれぞれのゲームのかたちがあって、
それは様々な刺激や現象や物事の定義づけから始まっていると思う。


哲学のクラス、あれはつまり他者と共に語り合うことで、
定義の擦り合わせや調整をしているのだと思う。
幼い人たちはまだ定義づけも少ないから、
他者の脳を使うことでより早くはっきりと、
哲学とやらのやり方が形作られていくのかもしれない。
長いこと生きて脳の底に「澱」が溜まるくらい哲学してきた大人でも、
他者と語れば脳はわき立ち、新しいルールが生まれ、
ゲームのアップデートができる。


哲学は1人ででもできる。
けれど、他者と脳の中の刺激や電気のようなものを交換し合えば、
料理の幅は広がるし、ゲームの面白さも増やしていける。
人間て、他者の脳を使うことが前提でプログラムされてるみたいで、
1人ではゲームは飽きやすく、料理は単調になりやすいと感じる。


哲学は1人ででもできる。
その上で、他者の脳と電気の交換をしたい。

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