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岩木山に魅せられて

2002年4月 僕は青森県弘前市に移住した。一度も訪れたことのない弘前に移住することを決意した理由。それは、一枚のねぶたの写真との出会いから。

20才の頃にインターネットで見た青森ねぶた。兵庫県で生まれ育った私は雪国で行われるこの祭りに興味を持ち、青森に住みたいと思うようになった。ところが、結婚し子どもが生まれると、そんなことも忘れ毎晩子どもを抱いて晩酌する始末。『小さい頃の夢は、プロ野球選手やパイロットだったが何ひとつ実現できていない。』自分自身にがっかりした私は、間もなく退職届を提出し、青森への移住計画を立てた。27才、結婚から一年余り、息子が生後3ヶ月のときだった。
電話やインターネットを使い住まいや仕事を探す日々。何も知らず青森市内の職場を探すもなかなか見つからず、次なるターゲットは弘前に。企業から連絡を受け妻と初めて青森へ来たのは平成14年3月のこと。1泊2日の旅は終始曇り空。不安だらけ、でも後へは引けない。
それから1ヶ月後、合格の返事をもらい我が家は急に忙しくなった。1200キロ以上離れた場所へ引っ越す費用はうん十万円。無職だった期間に貯金は底をついていたが、頑張ればなんとかなる!の精神で、我が家は青森へと向かうことになった。
夜明け前に実家を出発し高速道路を4時間走って敦賀港へ。車と一緒にフェリーに乗って秋田港に着いたのは更に22時間経った翌朝6時半。生後5ヶ月の息子は船酔いと発熱に見舞われる始末。それでも前に進むしかなく地図を頼りに弘前へ向かった。
快晴の津軽平野。碇ヶ関から大鰐、そして弘前に辿り着いた頃、青空の中に突然現れた白く美しい山。大きすぎて気が付かなかったその山がただただ静かに私達を見守っている。「ようこそ」と声をかけられ、ほっとした。その時、「この山に呼ばれたんだ」そう思った。
それからというもの、岩木山は、まるで母のようにいつでも私たち家族を見守ってくれた。移住早々に職を失い絶望したときも、次男が生まれたときも、長男が腕を複雑骨折し救急車で運ばれたときも、会社を辞め独立したときも、いつもいつも岩木山は見守っていてくれた。
そんな岩木山に心から感謝し、なにか恩返しがしたいと考えた。岩木山が喜んでくれることは何なのか。そう考えたとき「岩木山基金」という言葉がふと頭に浮かんだ。それは岩木山を観て育った子ども達が芸術の道を志すことを援助すること。そしてこの街に美術大学を作ること。この目標を達成することで、岩木山はきっと喜んでくれるのではないか。小さな力でも諦めず、岩木山の大きな大きなチカラを描き続けたい。







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