あか、しろ、みどり #パルプアドベントカレンダー2022
「ツモォッ!」
有線が流す竹内まりやの歌声は、牌を叩きつける音と野太い声に掻き消された。
マスターの矢島が珈琲を淹れる手を止めて卓上に目を遣る。和了ったのはまたしても大橋だった。赤五萬を引き入れての面前清一色、自摸。赤ドラを入れて八翻、一万六千点の倍満。
同卓する三人から点棒をせしめると、大橋はヤニに染まった黄色い歯をむき出しにしてがはははと笑った。
矢島がこの部屋でマンション麻雀を開いて二ヶ月になる。摘発に備え三ヶ月に一度のペースでハコを変えているが、幸い未だにガサ入れを食らった事はない。ケツ持ちのヤクザの管内を転々としながら、ルールもレートも変える事なく都内のマンションで賭場の開帳を続けている。
四人麻雀の東風戦、二万五千点持ちの三万点返し。ルールは街場の雀荘とほとんど変わらない。レートは千点二千円、順位ウマは二十-六十。赤ドラは萬子・筒子・索子に一枚ずつ入っているが、赤ドラ・一発・裏ドラのいずれにも祝儀はつかない。役満の和了りにだけ、ロン和了りで二十万円、ツモ和了りで十万円ずつの別払い祝儀が設定されている。
マンション麻雀にしては刺激あるオプションが少ない方だが、ワンゲームで動く額は紛れもなく裏賭博のそれだ。トップは最低でも二十万円近くを得るが、最下位は少なくとも十四万円近くを失う。そうしたカネの奪い合いがたった二、三十分の間に行われる。仮に持ち点マイナスでの最下位を食らえば、それだけで二十万円近いカネを失う計算だ。
二台置いた全自動卓のうち、今日は一台だけが稼働している。客の入りが悪いというわけではない。むしろクリスマスイブの夜だというのに場が立つ事の方が矢島にとっては驚きだった。店主としては場代が入るだけ喜ばしいが、聖しこの夜にまで博打を打つ連中には正直呆れざるを得ない。
矢島は五十に満たない歳だが、とうの昔にギャンブルには見切りを付けている。胴元として場代を稼ぎこそすれ、客として博打を打つような真似はしない。
途中どれだけ稼ごうとも、最終的には誰もが負けるのがギャンブルだ。それを真に理解するまで二十年も費やしてしまったが、理解できただけ自分はまだマシな方だったと思う。
一生かけても理解できず、そして理解できないまま潰れる連中は掃いて捨てるほどいる。そういう連中を潰してきたからこそ、自分は生き残っているうちに身を引く事ができたのだ。
大笑する大橋と苦渋に満ちた表情を浮かべる対局者たちを冷めた眼差しで眺めながら、矢島は内心で溜め息を吐く。そのまま湯気立つ珈琲を四人分のカップに注ぎ終えると、それらを盆に乗せて最終局の始まった卓に運んでいった。
「どうぞ、岡崎さん」
ああ、とだけ矢島に返答し、岡崎はサイドテーブルに置かれたホットブラックを口にする。卓上に向けた視線は鋭く、牌を切る所作も手慣れている。さる一流商社に勤めているとの触れ込みだが、スーツの生地の良さと種銭が切れないところを見るとあながちブラフでもなさそうだ。
腕のある打ち手が街場の雀荘で勝ち続けるうち、客同士のツテで高レートの場に参戦するケースはそれなりに多い。岡崎もその手合いだ。
もっとも、しのぎ切れているその時が永遠に続くとは限らない。少なくとも今この時は、いかに岡崎に腕があろうと大橋を叩けるだけの体勢には至っていない。この対局の一連の展開がその証拠だ。
緒戦に大橋とのリーチ合戦に負けて以降、岡崎の和了りは一度も無し。点棒を得る機会もないまま、前局では親番だったばかりに八千点を大橋に支払う羽目になった。子方の二人が支払う四千点の倍の点数だ。対大橋という観点では、当分の間岡崎に浮上の目はないだろう。
「大橋さんと水野さんも、どうぞ」
おう、と威勢よく返事するや、大橋はずるずると音を立てて珈琲を啜り込む。
粗野な振る舞いと言動が目立つ典型的なガキ大将タイプで、これまでにも何度か同卓者の顰蹙を買っている。このハコの主を気取っているようだが、これ以上同卓者とトラブルを起こすようであればそれなりの対応が必要だろう。
だが、博打打ちという観点で言えば大橋は阿呆ではない。死んだ親の遺産で遊ぶろくでなしの五十男には違いないが、ギャンブルの腕は優れている。細かい計算でなく大局的な押し引き、攻めと守りのタイミングを武器にするタイプだ。
アツく打ってドツボに嵌らない限り、こういう打ち手は概して強い。今日も来店するなり大宮の競輪で当てた事を自慢してきたが、ウェストポーチの膨れ具合を見ればそれが真実である事は明らかだった。当の大橋も今日の自分がツいている事を自覚して、多少の攻撃にも日和らず果敢に攻め返す。その結果ツキを逃さず勝負所で和了りきる好展開が大橋に続いていた。
翻って水野を見ると、どうもの一声どころかカップに口をつける事もなく眼の前の手牌に齧りついている。丸まった背中には負け分を取り返すという気概は見られない。これ以上負けたくないという怯えと、戦略も戦術も立てきれない錯乱、その二つだけが背中から伝わってくる。眼鏡の奥の両目もガラス玉と同じだろう。牌を見ているのではなく映しているだけに違いない。
盆暗だ、と矢島は水野を見て思う。
親のすねを齧り続ける穀潰しという点では、大寺のドラ息子である水野は大橋と似たりよったりのボンクラだ。だが、矢島が思うボンクラは世間が言う意味合いでなく語源の方を指している。勝負の場である”盆”に暗い事、勝負全体の流れも自分の立ち位置も見えていない事を指すのがボンクラという言葉の本来の意味だ。
世間的には同じボンクラでありながら、言葉本来の意味では大橋と水野は対照的だった。振り込まず和了らずのゲーム展開を抜きにしても、そもそも水野の腕と肝はこの店のレートに追いついていない。今日の負け分だけでも七、八十万は抜かれているはずだ。幸い実家が太いから店側も上客として扱えているが、万一勘当でもされようものならこの若造に廻銭──賭場が高利で貸す種銭──を回す事はあり得ない。そう矢島は考えている。
「小鷹さん、どうぞ」
壁際に座る最後の一人に珈琲を勧める。ロングストレートの黒髪をわずかに揺らしながら、面長の女は矢島に向けて微笑んだ。カップに口をつけないのは水野と同じだが、悠然とした物腰は水野のそれとは比べようもない。
ハコを変えても客はある程度固定されるのがマンション麻雀というものだが、小鷹はこのハコに変えてから来はじめた客だった。勿論、この類の店が一見客を入れる事はない。他の常連客の紹介だ。連れてきた常連は潰れたが、小鷹はその後も何度かこのハコに足を運んでいる。
三駅ほど離れた街で開業している整形外科医、そう耳にした事もあったが真偽は知らない。確かなのは廻銭の世話にならないだけの懐、そしてこのレートに見合うだけの腕と肝を持ち合わせている事だ。女だからと居丈高にかかる男どもに小鷹は少しも怯む事なく、五分かそれ以上に渡り合っている。
今回の対局でも、岡崎とのリーチ合戦に競り勝った余勢を駆って親番で大物手を和了ろうとした大橋を、小鷹はリーチを掛けない黙聴のツモ和了りで食い止めている。リーチを掛けて和了れば八千点の満貫、裏ドラ次第では一万二千点の跳満に届きそうな手だったが、敢えてリーチを掛けずに和了りやすさをとった形だ。
結果は五千二百点とそこそこの収入で収まったが、大橋の勢いを削ぐ戦略としては上々の判断だと矢島は捉えている。ツいている相手と真っ向から和了り競争をしたところで競り潰されるのが博打の常だ。それだと競り負けた岡崎の二の舞を演じて終わりになる。
一度和了りを潰されてなお倍満を和了りきった大橋のツキはべらぼうに太い。だが、小鷹もまだ脚を使い切らずに温存している。
これまでの展開から言って、大橋が七。小鷹が三。
大橋の優勢には違いないが、小鷹にもそれなりの目はある。それが矢島の見立てだった。
「ポン」
最終戦の東四局、序盤の四巡目から大橋が仕掛けた。手牌にあった中二枚を晒け出し、右側に座る岡崎が捨てた中と合わせて叩きつけるように卓の右端へと据え置く。
麻雀は四面子一雀頭と呼ばれる一定のパターンを揃えるゲームだが、それに加えてポーカーのように役を完成させる事が和了りの条件とされている。先刻のポンで大橋が揃えた”中”、それと”白”と”發”。これら三種類の牌は、状況を問わず三つ揃えればそれだけで役として成立する、最も難易度の低いものだ。
役の値段自体は最低値の千点だが、すでにトップに立っている大橋からすれば役の値段など問題ではない。要は和了れればそれで良いのだ。役を確定させた以上、後は残りの牌のパターンさえ揃えてしまえば大橋のトップは確定する。
開始早々に和了りへの特急券を手渡してしまった事に、岡崎は無表情で、しかし顔を紅潮させてほぞを噛む。他の二人も同じ思いに違いない。
大橋の後ろで観戦している矢島は、そんな事を考えながら。
それだけでは済まないかもしれない、とも考えた。
「ポン!」
中盤の九巡目、大橋の二度目の発声が響き渡る。引いてきた白を手拍子で捨てた水野の顔がさっと青ざめた。
先刻と同じように大橋は白を二枚晒し、左側の水野が捨てた白をむんずと掴んで三枚揃える。すでに据え置いた中三枚、その上のスペースに三枚の白を叩きつけた。
これで二役確定。ともすれば聴牌、和了りまであと一手という事も十分に考えられる。それだけでも十分な脅威だが、大橋を除く卓上の三人が真っ先に危惧したのはその事ではない。
「……おい、冗談じゃねえぞ。發が見えてねえじゃねえか」
堪らず岡崎が口を開いた。三味線にも捉えられかねないマナー違反の行為だが、同卓者たちにそれを咎める余裕は無い。
「おいおい岡ちゃん、何言ってんの。そんな事するわけねえだろ、俺ァひと和了りすればトップなんだぜ」
場を緊張させた当の大橋のみが七萬を切りながらへらへらと応じるが、張り詰めた空気は一向に解きほぐれない。
「しかしまあアレだな。もし發まで揃っちまったら偉え事だなおい。赤、白、緑っておいおい、クリスマスにぴったりの色合いじゃねえか。ハハッ」
平然と軽口を叩く大橋の手牌が、途端に禍々しいものへと姿を変えた錯覚を岡崎と水野は抱いた。
大三元。白發中の三元牌すべてを三牌ずつ揃える事で成立する役満。
役満の点数は三万二千点。スタート時の持ち点二万五千点を大きく上回る怪物手だ。当たり牌を打ち込んだ者はほとんどのケースで即死する。
白發中のいずれか一種類を揃えるのであれば容易いが、三種すべてとなるとそうはいかない。第一、白發中と東南西北の七種の字牌は自力では揃えにくく、それだけに早々に不要牌として場に捨てられやすい。
だが、今回は中盤戦に突入していながら發が一枚も場に捨てられていない。勿論、水野か小鷹がすでに二枚か三枚手牌に抱えている可能性もあるだろう。しかし、その希望的観測を裏付ける根拠は何もない。むしろ大橋がすでに二枚、最悪三枚發を揃えている事すら考えられる。小鷹に一度和了りを阻止されながらも倍満を和了ってみせた大橋のツキ具合を考えると、それは十分有り得る事だ。
手牌に發を持たない岡崎と、やはり一枚も發を持ち合わせていない水野が戦慄したのは、そういう事情を踏まえての事だった。
大橋の後ろで観戦している矢島だけは、その戦慄が的を射たものかどうかを知っている。瞬き一つにすら感情を滲ませる事なく、能面のように凍てついた表情で大橋の手牌を視界に収めている。
大橋は發を持っている。
發を二枚。残りはマンズの三四五六七。前局と同じマンズの一色手、当たり牌も二-五-八萬の三面待ちという盤石の構え。勿論、發が三枚揃わない以上役満にはならないが、現状のままでも一万二千点の跳満が確定している。ひと和了りすればそれで終わりという状況を抜きにしても、このまま和了って文句無しの大物手だ。
マンズ、ピンズ、ソーズ、いずれか一種類の色で手牌を構成する一色手は、自ずと他の二色が不要牌として捨て牌に並べられる。
通常ならメンツの種として重宝されるピンズとソーズの四五六牌。その周辺を大橋が序盤から捨てている事と、手牌進行がかなり煮詰まったこの段階で七萬を捨ててきた事。以上を照らし合わせると、大橋が發のみならずマンズも必要としている事は明白だ。
發とマンズは絶対に切れない。その事を前提に三者は牌をツモり、そして不要牌を場に捨てる。
岡崎は場に四枚目の南をツモり、そのまま捨てる。南は大橋が自分で捨てた現物。大橋がロン和了りできない安全牌だ。
小鷹は引いてきた牌を手牌に収めた後、入れ替わりに六筒切り。水野は牌を引いてきた後、手牌から大橋の現物である三索を捨てる。
開局当初から漠然と想定されていた三者の立場、あるいは役割が、この一巡で浮き彫りになった。
大橋の和了りを阻止すべく岡崎と小鷹が攻め役に回る。岡崎は行けるところまで押すが、いよいよ危険牌を引かされたら退かざるを得ないだろう。
攻め役の本命はあくまで小鷹だ。大橋のマンズに対し小鷹はピンズの一色手を整えつつある。しかも牌構成に重要な四五六牌の一つである六筒を打ち出してきた以上、小鷹もテンパイと見るのが妥当だろう。
水野は自分の手を崩してひたすらオリに回る。大橋の現物を合わせ打つ事で少しでも大橋を封殺しようと、ボンクラなりの足掻きを見せる。
三人が放つヒリついた気配を肌で感じながらも、大橋は尊大な態度を崩さない。三人の必死さを鼻で笑うかのように悠々と牌山に手を伸ばし、引いてきた牌を自分と、後ろで観ている矢島にだけ開陳する。
事ここに至っても、矢島は鉄で出来た能面を被り通した。
大橋が引いたのは三枚目の發。手元に残せば大三元確定。だが、發を残せばマンズの三か七を捨てることになり、待ちの種類は一つ減る。
軽薄な笑みを顔面に貼りつけたまま、大橋はノータイムで發を手に残し七萬を場に捨てた。大三元、マンズの三-六待ち。和了れば三万二千点。
「野郎……」
大橋の手変わりを目にした岡崎が呻く。大橋が引いた牌が發である確証は無いが、マンズが二度続けて場に放たれた事実が最終局面の証明である事に変わりはない。
ツモ番の回ってきた岡崎が牌山に手を伸ばす。引いてきた牌を見るや岡崎は顔を歪め、前巡の水野と同じく手牌から三索を切り出した。マンズ周りの危険牌を掴まされたに違いない。これで、水野に続き岡崎も脱落した事になる。
岡崎の苦悶をあざ笑うかのように、大橋は百円ライターでセブンスターに火を点け美味そうに吹かした。テンパイ時の煙草は手の進行が相手にバレるから慎め、などと俗に言われているが、大橋は役満を張りながら震え一つなく煙草を燻らせている。
自分のそれとは違うタイプのポーカーフェイスに、矢島は改めて大橋の実力の高さを感じた。
卓上にはもはや二人しか生き残っていない。大三元を張った大橋と、それに対抗する小鷹。
前局の大橋と同様、小鷹も跳満確定の大物手である面前清一色をピンズで仕上げているに違いない。子が和了れば一万二千点だが、今の小鷹は得点が五割増しになる親番だ。ここで和了れば最低でも一万八千点からの大量得点になる。
もっとも、それは小鷹が和了り牌を引いてくるか、もしくは和了り牌が場に放たれる事があればの話だ。引いた牌が大橋への危険牌であれば、小鷹も他の二人のように危険牌を抱えて沈むしかない。
小鷹の白く細長い指が牌山に伸びていく様を四人の男が凝視する。水野と岡崎は固唾を飲み、大橋は口角を吊り上げながらもわずかに緊張を滲ませている。矢島だけが相も変らず感情を表に出していない。
(そう言えば、白發中は美女の証だったな)
不意に、矢島の脳裏に麻雀牌の蘊蓄が浮かんだ。
透き通る肌の色を表す白。緑とも言い表される豊かな黒髪を表した發。鮮やかな口紅の色で染められた中。中華美人の象徴であるそれらを三牌ずつ集めた大三元は、この世の遍く美女を手中に収めた役とも言える。
顔の赤く染まった岡崎から中、顔面蒼白の水野から白が切り出された。奇しくも同じような顔色の二人から切られた牌だが、最後の發は場に放たれる事はないだろう。役満の危険性を考えると当然だが、發に相応しい黒髪の小鷹がいるのに勿体ない──そんな益体もない事をぼんやりと考えていた。
小鷹は引いてきた牌を一瞥し、手牌の一番右端に添える。そのまま一度だけ瞬きをすると、
とん、と音を立て、今しがた引いた發を場に放った。
「なッ!?」
「ええっ!?」
「…….!!!」
岡崎と水野が驚愕の声を上げ、大橋が煙草のフィルターを噛み潰して絶句する。矢島までもが瞠目した後、激しく目を瞬いた。
「……おい。舐めすぎじゃあねえのか、姐ちゃん」
卓上に流れる静寂を大橋の声が破る。これまでのふざけた調子からは想像だに出来ないほどドスの効いた声を出すと、大橋は据わった目つきで対面の小鷹を睨めつけた。
「何の根拠があって發を切ったのか知らねえがよ。いくら何でも場が見えて無さすぎやしねえかい。俺らを舐めてやしねえかい。ええッ?」
凄む大橋を意に介さず、小鷹はポーチからピースのアロマクラウンを取り出し口端に添える。ミッシェルクランの細長いライターで先端を炙ると、室内に仄かなチェリーの香りが漂った。
深く、ゆったりと紙巻を吸い込んだ後、細く、長く紫煙を吐き出す。
そうして一服を終えると、小鷹は大橋の目を見据えて言った。
「当たれないんでしょう? 結局」
「────!!! 槓ッ!!!」
激昂した大橋は手牌から三枚の發を晒した。白の上部分のスペースに、小鷹が捨てた四枚目もろとも割れんばかりの勢いで叩きつける。
既に大三元が確定している以上、この大明槓はほとんど無益な行為と言って良い。それでもなお意味があるとすればただ一点。
「さあ、これであンたの包だぜ姐ちゃん。俺がツモ和了ればあンた一人の責任払いだ。役満祝儀もろとも、あンた一人に背負ってもらおうかい」
怒気を撒き散らしながら、大橋は王牌の端に積まれた嶺上牌に手を伸ばす。手にした牌が和了り牌の三-六萬ならその時点で終了だ。対局者全員が視認できる形で役満を確定させた者へのペナルティ──これを包と呼ぶ──として、小鷹は三万二千点の点棒と役満祝儀の三十万円を一人で大橋に支払う事になる。
嶺上牌を摘み上げて一瞬だけ停止した後、大橋は勢いよく牌を自分の眼前に持ってきた。
七索。三-六萬に非ず。
大きく舌打ちをすると同時に、大橋は瞬時に思考を巡らせる。この七索が小鷹に当たる可能性はどの程度のものか。
結論から言えば、ほぼ百パーセント当たらない。
場を見渡すと六索が四枚、七索が二枚、八索が三枚捨てられている。この時点で、七索が当たり牌になるケースは七索そのものを当たり牌とする単騎待ちしかほぼ成立しない。待ちが一種類しかない上に当たり牌の枚数も残り一枚の七索単騎待ちを選択するのは非合理的だ。ソーズを八九と持っての辺張七索待ちも一応無くはないが、役の絡みを考えると考慮に値しないだろう。
そもそも、今回はそのような細かい事を考えるまでもない。小鷹の手牌がピンズの一色手である事は捨て牌から見ても明らかだ。ピンズで固めている手牌の待ちがソーズである可能性自体が極めて低く、仮に当たり牌だったとしても高得点役である一色手が否定される以上、大橋が逆転負けを喫する事態には至らない。
やはり、七索を捨てる事は勝敗に影響しない。勝負は次巡以降に持ち越しだ。
そう確信しつつ、大橋は七索を場に放った。
「ロン────」
鈴を転がすような声が室内に木霊する。小鷹が手牌を倒すよりも遥かに早く、大橋は席を揺るがして立ち上がった。
「七索単騎ィ!? てめえピンズの染め手やってたんじゃあ────」
左手に持った煙草を軽く吸い込み紫煙を吐くと、小鷹は空いた右手で手牌を晒し始めた。
一牌目はやはり七索。大橋が睨んだ通り、当たるならばそれしかあり得なかった単騎待ち。間を置かずに残りの牌が、ぱたり、ぱたりと三つずつ倒されていく。
二筒。
三筒。
五筒。
九筒。
いずれのメンツもピンズだが、肝心なのはそこではない。
メンツのどれもが暗刻、つまりポン・チーを用いる事なく自力で揃えた同種の牌三枚で構成されている。四つの暗刻が晒されるのを目の当たりにした大橋の顔色が、見る間に石膏像と見紛うほどの蒼白さに染まっていった。
四暗刻。読んで字の如く、四メンツすべてを暗刻で構成する事で成立する役満。
四暗刻の和了り形には単騎待ちと双碰待ち──同種の牌を二つ揃えた雀頭を二種類持ちいずれかの種類で三枚目を揃える形──の二つがあるものの、実際に見られるケースの九割以上はシャンポン待ちだ。この待ちだとツモ和了った時にしか四暗刻が成立しない。
だが、今回小鷹が和了った単騎待ちはツモ和了りだけでなくロン和了り、つまり他の者が捨てた牌でも役満として和了る事ができる。勿論この時点でも役満には違いない。しかし、希少性の高い役満の中でもとりわけ出現頻度の低い事から、四暗刻の単騎待ちを別格とするハウスルールも少なくない。
「マスター。確か四暗刻単騎は────」
小鷹の問いに矢島は頷き、淡々と回答を口にする。
「はい。当店では純正九蓮宝燈と国士無双十三面待ち、そして四暗刻単騎待ちはダブル役満の取り決めです。得点、役満祝儀ともに通常の役満の二倍となります」
矢島の回答に満足げに微笑むと、小鷹は立ちすくんだままの大橋に向き直る。ロンを告げた時と同じ澄んだ声で、まるで歌うかのように申告した。
「では大橋さん、親のダブル役満は九万六千点です。それと、ダブル役満の御祝儀は四十万円。────御免なさいね?」
一撃で六十万円以上の大敗を喫した大橋は、一言も発せないまま口を半開きにして凍りつく。
顔面を蒼白に染めて根が生えたように立ち尽くす有様は、まさしく石膏像のそれだった。
「……あんた、前の巡で六筒を切ってるよな。七索を残したのはその時か」
彫像と化した大橋をよそに岡崎が発した問いに、小鷹は無言で頷く。続けて水野が小鷹に疑問を呈した。
「な、何でそんな事したんですか。六筒を手元に残しておけばピンズの四-六-七待ち。六筒で和了れば四暗刻単騎ですけど、そうでなくてもメンチンと三暗刻で親倍満の二万四千点。十分大橋さんを捲れる手じゃないですか」
「あら、そんな事を訊くの? ひと和了りでトップ確定から大三元を目指した人が目の前にいるのに」
くすくすと笑うと、小鷹は半分ほどの長さになった紙巻きをサイドテーブルの灰皿に投げ落とした。
「七索は掴めば出る牌よ。貴方達二人が七索を抱えていたら危なかったけど、それはまず無いと思っていたわ。六索が四枚すべて切られるのが早すぎるのと、大橋さんの安全牌に窮して出てきたのが二人して三索だった。手の内に七索があるなら、大橋さんが捨てているうえに三索よりも使いづらい牌だからすぐにでも切られるはずよ」
「そ、そりゃあそうだが。それにしたって發のツモ切りは無茶が過ぎるぜ」
「あら。七萬の二連打で大橋さんが發を固めた事は岡崎さんも察してたでしょう。当たらないなら怖くはないし、大橋さんの性格なら挑発すれば大明槓を仕掛けてくる可能性は高いわ。七索が山に生きていると見た以上、少しでもツモを増やしてもらおうと思ったの。それに────」
そこまで言うと、小鷹は手元に置かれた七索に手をかける。
「あか」
ピアニストのように細長い指先が、赤く染められた索子の先端をなぞる。
「しろ」
続けて、牌上部の両端の余白。
「みどり」
そして、残り六本の緑の索子。
「クリスマスのお祝いには一牌あれば十分よ。白發中で大騒ぎなんかしなくても、ね」
艶然とした笑みを小鷹から向けられた大橋は、糸の切れた人形のように肘掛け椅子に崩れ落ちる。
そして、派手に牌山を崩しながら卓上に突っ伏した。
「きっと君は来ない、ひとりきりのクリスマス・イブ……か」
客の捌けたハコの中で、矢島は有線から流れてくるクリスマスソングを口ずさむ。
よろめいた足取りで大橋がハコを後にしたのを皮切りに、水野と岡崎、そして小鷹も部屋を出ていき散会となった。後は卓を掃除するだけだが、何となく取り掛かる気になれずぼんやりと珈琲を啜り込んでいる。
この一件を受けて、大橋も当分の間は大人しくなるに違いない。競輪の勝ち分の半分以上を吹き飛ばされた事も痛手だろうが、主気取りだった大橋にとっては負け方それ自体の方が痛恨の極みだろう。
もっとも、増長していた大橋を小鷹が凹ませてくれたのは、店主の矢島からすればありがたい事この上ない。厄介な客の一人や二人、いざとなれば矢島一人で締め出す事も出来る。だがそれはそれとして、何事も穏便に済むのが一番だ。その意味では、今日の小鷹には感謝しなければいけないだろう。まさか胴元から客に対して金一封を渡すわけにもいかないが。
「……それにしても」
かちゃり、とカップをコースターに置きながら、矢島は独りごちる。最後に出ていった小鷹が言い残した一言が、未だに耳奥で反響していた。
(また遊ばせてくださいね、マスター。ここは良い調整の場ですから)
「”調整”ねえ…..。この店もそこそこ高いレートだと思うんだが、ね」
何気なく時計を見遣ると、時針は二三時五五分を指していた。あと五分でイブは終わり、そこからはクリスマス本番だ。
大儀そうに立ち上がると、矢島は卓掃のため牌の散らかった卓に向けて歩き出す。卓上の七索が、賭場には不似合いなクリスマスツリーのように矢島には思えた。
同刻、赤坂。貸卓専門の高級雀荘。
赤絨毯が敷き詰められた通路の両側に並ぶドア。その一つの前で小鷹は立ち止まり、軽くノックをした後ドアノブを回す。
「おお、待っとったよ小鷹君」
部屋の中には雀卓と、それを囲む三人の男。そのうちの一人、恰幅の良い老爺が小鷹に向かって手を挙げた。
「いつも三十分前には着卓している君が、今年は一番最後とは珍しい。仕事が片付かなかったのかね?」
眼鏡を掛けた長身の初老の男が小鷹に問う。男に微笑み返しながら、小鷹は空いた席に着いた。
「いいえ先生。ここに来るまでに少し調整していたんです。おかげで今日は良い麻雀が打てそうだわ」
「ケッ。人を待たせておいて安レートで調整たァ良い御身分だ」
最後の一人、シャツもスラックスも黒で固めた細身の男が毒を吐く。手にしたダンヒルを揉み消すと、色の薄いサングラス越しに鋭い視線を小鷹に突き刺した。
「今日こそは年貢の納め時だ。身ぐるみ剥いで赤坂の寒空に叩き出してやるよ」
「あら、折角身ぐるみ剥いだのならホテルにでも連れ込めば良いのに。────もっとも、殺し文句ならそっちの方が燃えるけど」
チッ、と音を立てて舌打ちすると、男は裏返しになった五枚の牌を小鷹の前に寄せた。
「場決めだ。減らず口はそれぐらいにしてさっさと引きな。夜は短えんだ」
「おお、そうじゃともそうじゃとも。年に一度の楽しみじゃ」
「うむ。早速始めようではないか」
逸る男たちを前に、小鷹は獰猛な笑みを浮かべながら牌の一つを摘み上げる。
「ええ。心ゆくまで楽しみましょう。年に一度の千点十万円────」
手にした牌を裏返しながら、勢いよく卓の縁に叩きつける。刻まれたのは”東”の一文字。
「────私たちの、クリスマスをね」
時計の針が零時を指した。
〈了〉
これはなんですか?
元桃之字さん、現むつぎはじめさん主催のイベント『パルプアドベントカレンダー2022』参加作品です。
12/1から12/24までの期間、24名のパルプスリンガー(エンタメ小説の書き手)が日替わりでパルプ小説を投稿するというアグレッシブウィンターフェスティバル。一言で言えば日替わり小説リレー企画ですね。
12月にあるまじき熱量の高さ。参加者みんなゲレンデが溶けるほど執筆してる。すごい。
親交のあったむつぎさんに「あんたァ、書ける男だろう」と言われながら『さつま白波』の一升瓶をドスンと目の前に置かれたので、新参者ですがチャレンジしてみた次第です。読んだ人が面白いと思ってくれる事を切に願っています。
これはパルプですか?
パルプ=大衆小説と捉えるならパルプです。阿佐田哲也先生の傑作『麻雀放浪記』をはじめ、麻雀小説は大衆小説の最たるものですから。
麻雀を知らない人でもふいんきは楽しんでもらえるよう心がけたつもりですが、よく分からなかったらそれは私の力量不足です。大変申し訳ありません。あと麻雀ガチ勢には稚拙と断じられるであろう描写が多々あります。重ねて申し訳ありません。口直しに『ノーマーク爆牌党』と『リスキーエッジ』をオススメします。麻雀漫画って楽しいよね!!!
明日の担当はどなたですか?
明日の12/15(木)はLaundryman Lv.Maxさんがご担当です。
今年初めて逆噴射小説大賞に参戦され、上の応募作でいきなり最終選考を争った超ド級のニューカマー。しかも小説を書くのもそれが初めてだったそうで、私含め界隈の人間は度肝を抜かれっぱなしです。現在も精力的に新作を書き続けているのもすごい。そして偉い。
タイトルは『ケンタッキー・フライドヒューマン』。御本人曰く「フライドチキンで拷問する話」との事。ヤバい予感しかしない(良い意味で)。
皆さん楽しみにされていると思いますが、私はもっと楽しみです。引き続きパルプのチェインコンボをサンタに叩き込みましょう。クリスマスバンザイ!!!!!