静寂【しじま】に唄え

 クワイエットという己の通り名を、ケイは快く思っていない。10年前に喉をかき切られた屈辱がその名を聞くたび蘇る。たとえ他意はなくとも、かつての未熟さをなじられたような不快を感じずにはいられない。
 飼われた組織の命令で3人の男を消した夜、ケイは帰路のゴミ溜めで妙なものを目にした。
 10歳にも満たない少年だった。日頃から洗髪剤を使っているであろう豊かな金髪、そして小綺麗な身なりは、明らかに浮浪児のものではない。良家の子息と思しき少年が黒いゴミ袋の上に昏倒している有様は、奇妙そのものと言える光景だった。
 銃を取り出し、ケイは周囲を警戒する。続いて男子に銃口を向け、その姿勢のまま歩み寄った。
 目立つ外傷はないが、胸の上下がやや荒い。おそらく発熱している。風邪か、あるいは重篤ではないにせよ、何かしらの病を患っているのかもしれない。
 銃口をゼロ距離で突きつけたまま、ケイは数瞬ほど逡巡する。やがて銃を収めると、少年を担ぎ上げ、背に負った。情にほだされたわけではない。素性が知れないからこそ、この一帯を仕切る組織の管理下に置いたほうが後腐れがないと判断した。ただそれだけのことに過ぎない。
 鍛え抜いた躰には重みとも呼べぬわずかな重みを背に、ケイはねぐらのアパートメントに向かった。




 ドアを開け、自室に入る。ベッドに少年を横たわらせてからランプを灯した。最低限の調度品、かすみ草の生けられた花瓶、そして少年の横顔が橙色に照らされる。
 ケイはベッドの脇にひざまずき、髪をかき上げながら自分の額を少年の額に合わせた。
 やはり熱がある。そう思った瞬間、

「──!?」

 ケイは目を見開いた。
 脳に映像がなだれ込んでくる。銃の型番と丁数で埋め尽くされた帳簿、番号がラベリングされた白い粉末入りの袋、意味するところの推量さえできない化学式の群れ。すべて自分の知らない情報。
 そして、ある光景。
 民家の一室に男女が倒れ伏している。両人とも頭部を撃ち抜かれて間もない。血の海が広がる部屋に男児の泣き叫ぶ声が響く。
 男の怒声が泣き声を遮った。続いて打擲ちょうちゃく音。血を流し続ける男女が遠ざかっていく。男の手が荒々しく部屋のドアを閉じた。男女の姿はドアの向こうに喪われた。
 すべての光景が、主観視点の映像・・・・・・・だった。
 ケイは弾かれたように少年から額を外した。呼吸が荒い。青褪めているのが自分でも判る。
 うう、と少年がか細いうめき声を上げる。ケイは反射的に両の手で銃を構えた。
 少年が顔を横向け、薄く目を見開く。己に向けられた銃口に気づいているかも分からない、虚ろな視線をケイに向けて呟いた。

「──だ、れ?」

 ケイは答えず、構えも崩さない。粘度に満ちた沈黙が部屋中を充たしていく。
 5秒、あるいは10秒ほどの沈黙が流れた。少年の瞼が再び落ちていった。
 ケイも、ゆっくりと銃を下ろす。
 そして、深く、長い吐息を漏らした。己の作り出した沈黙の重さに耐え切れない、とでも言うかのように。




 カーテン越しの仄かな光、そして鳥のさえずりに少年は目を覚ました。
 額が冷たい。手を伸ばすと、固く絞られたタオルが載せられていた。人肌で温くなっていないのは、何度もタオルが替えられたからに違いない。
 香ばしさと甘さの入り混じった匂いが少年の鼻に届いた。ベッドから身を起こし、匂いの方向に身を向ける。
 女がいた。間仕切りのない部屋のキッチンで火にかけた鍋をゆっくりとかき回している。少年の気配に気づいたのか、女が振り返った。首筋に大きな傷痕が走っていた。端正な顔立ちに加え、眼の奥に宿る光が硬質な印象を与えている。射抜かれるような眼の光に、少年は思わず身をすくめた。

「──」

 女は声を発さず、手ぶりで少年に応答する。前にかざした手を少し下ろす仕草は、無理せず休むように、と伝えているようだった。
 女がキッチンの火を止め、鍋の中身を2つの皿に移す。両手に持った皿を二人掛けのテーブルに置くと、再び少年に手ぶりを示した。今度はさっきと逆に、差し伸べた手を上に上げている。
 立ち上がって、ここへ。手ぶりの意味するところに従い、少年はそろそろとベッドから下りてテーブルへ向かう。ミルクで溶いたコーンスープの甘く香ばしい匂いが、再び少年の鼻腔を充たした。
 椅子に腰掛けた少年に向かい、女が軽く手を差し伸べる。少年にスープを薦めると、女はスープを啜りはじめた。しばらく間を空けて、少年も匙ですくったスープを口に運ぶ。
 甘みと、温かさが、少年の口内に広がった。




『字は読める?』

 空になった2つの皿が置かれたテーブルの上で、女が紙にペンを走らせる。受けた印象そのままの硬質な文字に少年が肯くと、女も軽く肯いた。

『私はケイ。見てのとおり、喉をケガしているから喋れない。あなたの名前は?』

「──アンソニー」

『アンソニー。あなたにいくつか教えてほしいことがあるの。薬は飲ませたけど、あなたは病み上がりだから無理に喋らなくてもいい。ここまでは大丈夫?』

「うん、大丈夫」

『ありがとう。あなたはゆうべ、私のアパートの近くで倒れていた。何があったの?』

「──悪いやつらから、逃げてきた」

 ペンを走らせようとしたケイの手が止まった。少年の顔を凝視した後、再びペンを走らせる。

『──悪いやつらって、どんな人たち?』

「わからない。でも絶対いい人じゃないよ、あんなやつら。大きなお屋敷の中で、よくわからないことを覚えさせられるんだ。ぼく、一度見たものはどんなものでも忘れないから」

 一度見たものは忘れない。その申告自体が驚愕に値する内容だが、ケイは敢えて質問を続けた。

『どんなことを覚えさせられたの?』

「本当にわかんないんだよ。文字と数字がびっしり書かれた紙や、番号のシールが貼られた白い粉の袋とか。カクカクした線と文字が書かれた、変な絵のようなのもあった」

 ケイは思わず唾を飲み込んだ。昨夜、自分の脳内に流れてきた情報と一致している。

『──覚えたものを、誰かに伝えることはできる? 言葉で教えるのでなく、見たものをそのまま伝えるの』

「うん。おでこ同士をくっつけると、僕の頭の中身がその人に伝わるの。どんなものを伝えてほしいか教えてくれれば、僕がそれを選んで伝える。僕の頭がぐちゃぐちゃだと、いらないものまで伝わっちゃうみたいだけど」

 アンソニーの語る内容はケイを震撼させた。昨夜の現象はまさにこれだ。しかし、真に驚くべきは我が身に起きた事柄ではない。
 情報を見たまま収納し、任意の人間にだけそれを伝える。生きた金庫のようなものだ。あとは金庫の存在さえ秘匿できればいい。そうすれば当局の追及逃れは勿論、企業や政治家の強請ゆすりも自由自在だ。言うなれば最強の盾と矛、それが産み出す利益は計り知れないものになる。

「でもね、何でもかんでも覚えられるわけじゃないんだ」

 問わず語りにアンソニーが続ける。

「毎日毎日、一度にいろんなことを覚えさせられたんだ。これまでにないくらい、たくさん。そうしていたらどんどん頭が痛くなってきて、このままじゃ頭がパンクして死んじゃうって思った。本当だよ。だから、お屋敷を出ていくトラックの荷台に隠れて逃げてきたんだ。途中で荷台を下りたけど、下りた先がどこなのかもわからないし頭も痛いまんまだし──そこからは、覚えてない。気づいたら、ケイのこの部屋にいた」

 アンソニーの独白に耳を傾けながら、ケイは思考を巡らせる。
 訊きたいことは幾らでもあった。アンソニーの出自。他者と記憶を共有できる理由。アンソニーの言う『悪いやつら』にさらわれた経緯。だが、どれも幼いアンソニーから満足な回答が引き出せるとは思えない。
 何より──質問の如何によっては、アンソニーの心を破壊しかねない。アンソニーの両親と思しき男女が息絶えたあの光景は、恐らくアンソニー自身が自己防衛のため無自覚に封印した記憶だ。それを無理矢理に暴いた結果アンソニーの心が壊れ、今後一切の情報を引き出せない廃人と化すことをケイは危惧していた。

「──ねえ、ケイ? どうしたの、黙っちゃって。ぼくはまだぜんぜん喋れるよ」

 いぶかるアンソニーをよそに、ケイは沈黙の中で質問を選り抜く。やがてペンを手に取ると、速やかに最後の質問を記した。

『ごめんね、これで最後にするわ。あなたは大きなお屋敷にいたって言ってたわね。そのお屋敷がどんな感じだったか教えてもらえる? お屋敷の大きさや形、色を教えてほしいの』

「なんだ、それなら簡単だよ。ぼく、絵が得意なんだ。紙とペンを貸してちょうだい」

 言われるがまま紙とペンを差し出すと、アンソニーはスケッチを始めた。年齢に似つかわしくない精緻なデッサンが見る間に紙上を埋め尽くしていく。

「うん、こんな感じだったよ。色は真っ白」

 数分も経たずに仕上がったデッサンを見て、ケイは奥歯を噛み締めた。


 この地域一帯に根を張る組織、ハーマン商会。現在のケイの雇い主。
 アンソニーの言う『大きなお屋敷』とは、ハーマン商会の本拠地そのものに違いなかった。




 次の日、ハーマンの最精鋭の部下たちが商会の本拠地に招集された。招集対象にはケイも含まれている。前日のやり取り以来、ケイはアンソニーには自室から一歩も外に出ないよう言いつけていた。
 ことさらにアンソニーを慮ろうという心積もりは持ち合わせていないつもりだった。多少腕が立つとはいえ、己が商会の末端でしかないことは理解している。商会の内部でそれとなく情報を集め、その後で上層部に届け出ればいい。そこまでが自分の領分だ。
 その考えが言い訳にもならぬことはケイも自覚している。それでいながら即座に商会に届け出ず、あげく素知らぬ顔で緊急招集に応じる己の矛盾を、他ならぬケイ自身が訝しんでいた。


「いいか、これから俺が言うことはハーマン商会秘中の秘だ。一言でも外に漏らした奴ァ生きたまま豚の餌にする」

 子飼いの精鋭が居並ぶ会長室で、禿頭のハーマンは開口一番にそう告げた。

「今日ここにお前らを集めたのは他でもねえ。──ガキだ。このガキを探せ」

 ハーマンが低い声で告げる。指先でアンソニーの写真をつまみながら。

「名前はアンソニー=カーター。当然だが只のガキじゃねえ、ある能力を持ったガキだ。このガキの身柄はうちが押さえていたが、せんだって煙のように消えやがった。こいつさえ手元に置いときゃハーマン商会は安泰、そう言い切っても過言じゃねえ」

 そこまで喋ると、ハーマンはふうっと溜息を吐く。
 そして、見る間に顔を紅潮させ、全身をぶるぶると震わせた。

「──安泰だったんだよ。手元に、置いてさえ、いりゃあ!」

 怒号を放つや子飼いたちに背を向け、鉄板入りの靴でマホガニーの机を蹴りつける。雄叫びを上げるハーマンが滅多やたらに蹴りつけるうち、豪壮な会長机は見る間に廃材と化した。
 蹴りを乱打したハーマンがぜいぜいと肩で息を吐く。そうするうちに幾分落ち着いたのか、平静を取り戻した調子で子飼いたちに告げた。

「手元から離れりゃあお前らの首どころじゃねえ。この俺が、ハーマン商会が、丸ごと吹っ飛んじまうような代物だ。監視役の連中は全員豚の餌にした。てめえらも餌になりたくなけりゃあ、探せ。草の根分けてもガキを探せ!」

「見つけたときの報酬は、いかがなもので──」

 声の方向に全員の視線が注がれた。
 子飼いの一人、ラトリーだった。"蛇"の通り名をそのまま体現したかのような異様に長い手足、粘着質な性格、そして残虐性から、ハーマンの小飼い同士においても忌避され、恐れられている。怒り狂うハーマンを前に平然と報酬の話を切り出すあたりも含めて、やはり常軌を逸した感性と言えた。
 
「報酬だあ──」

「ええ、報酬です。もちろん豚の餌になるのはまっぴら御免ですが、鞭だけでなく飴もしゃぶらせてくれれば一層身が入りますので」

 怒気に満ちたハーマンの視線を真正面から受けつつも、ラトリーはそれを往なすかのようにへらへらと応じる。毒気を抜かれたのか、ハーマンの表情に呆れが混じった。

「──良いだろう、そん時ゃ昇進だ。一足飛びに幹部にしてやる。それからもう一つ、何でも欲しい物を言え。金、女、コネクション、分を弁える限りはくれてやる」

「おほっ! 大盤振る舞いじゃあないですか。お任せ下さい。このラトリー、最善を尽くしてボスのご厚意に報いますので」

「報いるのが当たり前だ! 他の連中も忘れるな。例えくたばってもこのハーマンに報いろ! 以上!」

 部下たちが会長室を後にする。ハーマンの犬の群れに混じり、ケイは凍てついた表情の下で必死に考えを巡らせていた。進退を決めねばならない。早急に。

「浮かない顔ですねえ、クワイエット──」

 絡みつくような声色に、ケイは思わず身を震わせた。歩調を合わせたラトリーが、ぴたりと側に付いている。

「心中お察しいたしますよ。首尾よく進めば幹部ですが、下手をすれば豚の餌ですからねえ。嫌ですねえ、生きたまんまで豚の餌。ああ、想像するだけで嫌だ嫌だ。もっとも、それはこのラトリーも同じなのですが──」

 ラトリーは一人でまくし立て、何が可笑しいのかふぇっふぇっと笑い声を上げている。たとえアンソニーの一件がなくとも、ケイはこの男と一切の関わりを持ちたくなかった。

「ところで貴女、何か隠してますね」

 ばくん、とケイの心臓が跳ねた。
 心臓だけだ。歩調にも表情にも一切のブレは生じさせていない。ケイは自然に歩みを止め、鉄面皮のままラトリーの眼を見据える。
 演技は完璧だ。暴れ狂う心臓にさえ気づかれなければ。
 ラトリーも歩みを止め、ぬめりつくような視線をケイに注ぐ。ラトリーへの嫌悪感をも忘れるほど、ケイは己の鼓動を疎ましく思った。
 ケイにとって永遠と思える5秒弱が経過した時、ラトリーが溜息をついた。

「……気のせいでしたか。いや、気を悪くしないでくださいね。職業柄ですかねえ、時々何の根拠もなく人を疑ってしまうんですよ。悪いクセです、悪いクセ……」

 ラトリーの職務を脳内で反芻し、ケイは軽い吐き気を催した。
 尋問、そして拷問。正面切っての戦闘でもラトリーは図抜けているが、本人は実行部隊に就くことを避けこれらの職務に執心している。それは人に絡みつき、際限なくいたぶることを悦びとするこの男にとっての天職に違いなかった。

「あらぬ疑いをかけたことをお詫びしますよ、クワイエット。この償いは、いずれ必ず」

 声を発せぬケイに一礼し、ラトリーは歩み去っていった。去り際に一声を残して。

「願わくば、あらぬ疑いのままであってほしいと思いますよ。私もね──」

 躰にかすかな震えが走る。
 それが嫌悪感と怯えのどちらに因るものか、ケイには判断がつかなかった。




「──どうしたの、ケイ?」

 アンソニーの声に、ケイは我を取り戻した。手をつけることなくスープを凝視している様を見て、アンソニーが訝しがっている。

「疲れてるの? 大丈夫?」

『──ごめんなさい、考え事をしていたの。あなたの方こそ大丈夫? 体の調子は戻った?』

「うん。色々覚えさせられることもないからだいぶ楽になったよ。ケイがこの部屋に泊めてくれているからだよね、ありがとう」

 アンソニーの無邪気な感謝がケイの心に突き刺さった。突き刺さった感謝の言葉はケイの心をかき乱し、再びケイを思考の底に沈めていく。
 豚の餌にも幹部の座にも興味はない。ただただ職務をこなす事しか頭にないが、惰性と言われればその通りだと思う。
 幼くして両親を亡くし、頼る伝手つてもないまま迷い込んだのが裏の世界だった。生きるためには何でもやった。女を捨て、声を捨て、誰かを殺し、己を殺し続けるうち、この世界で生き抜いていくための最適な姿をものにした。疑問も、希望も、絶望もなく、ひたすらに人を殺め続ける。ただそれだけの存在に成り果てた。他の生き方など知らない。今更知り得るはずもない。

 ──アンソニーも、自分と同じ道を辿るのかも知れない。

 ぼんやりと、しかし確信を持ってそう思った。この子の境遇は、かつての私と似過ぎている・・・・・・


「ねえケイ? またぼーっとしてるよ、本当にだいじょう──」

『アンソニー、話があるの』

 ケイがペンを走らせるのを見て、アンソニーが言葉を呑んだ。

『お屋敷に戻りたいと思う?』

「なんだいいきなり。絶対嫌に決まってるよ、あんなところ」

『そうよね。じゃあアンソニー、帰るおうちはある?』

「え。…………わかん、ない。何でだろう、思い出せないや」

『いいの、無理に思い出そうとしなくて。──それじゃあ、私と一緒に暮らさない? あなたが帰る家を思い出すまでの間、ずっと』

「いいの!?」

『ええ、もちろん。でもね、この家はもうすぐ出ていかなくちゃならないの。引っ越すことになるけどいいかしら?』

「どこだっていいよ! ケイと一緒なら!」

 声を弾ませるアンソニーに、ケイは微笑を浮かべた。
 救いたいのはこの子か、それとも在りし日の自分か。どちらであろうと構わない。久しく忘れていた温もりを与えてくれたこの少年と、共に過ごせるのであれば。
 アンソニーに温かい微笑みを向けるかたわら、ケイは冷めた頭で商会の足抜けを考え始めた。足がつきにくく追手を撒きやすいルートを徹底的に検索し、脳内での試行を繰り返す。
 突然、受話器のベルが鳴り響いた。商会の仕事の連絡だ。ケイに友人はいない。
 ケイはアンソニーに向かい唇に人差し指を立てる。アンソニーも無言で肯いた。元よりアンソニーには小声で会話するよう言いつけているが、電話の際には物音一つ立てることも許されない。
 ケイは受話器を取った。

「"鴉"だ。クワイエットか」

 陰気な男の声だった。ハーマンの子飼いの一人、ケイも何度か仕事を共にした事がある。
 通話口の縁に人差し指で、コツ、と一回音を立てた。口が利けないケイへの通話は、すべてイエスとノーでやり取りされる。音を一回立てればイエス。二回ならノー。

「仕事だ。例の件は関係ない。ルシアンの連中が造反を計画している事が判った」

 ハーマン商会の下部組織、ルシアン商会の造反計画。断定的な物言いからして、確かな証拠を得ているらしい。

「会長と副会長を消せ。護衛がいればそれも含む。なお現地での再調査は不要」

 ──コツ。

「良し。場所は見せしめの意味を込めてルシアン商会本部前。お前の他には俺と"燕"が向かう。今から20分以内に来い。できるか」

 ──コツ。

「良し。本件の連絡は以上。最後に、例の件について何か掴んだか」

 ──コツ、コツ。

「了解。こちらも特に情報はなし。本部にはそう伝える。以上」

 通話が切れたことを確認し、ケイも受話器を置く。

「おしごと?」

 アンソニーが小声で尋ねる。ケイは肯き、紙にペンを走らせた。

『このお仕事が終わったら引っ越しましょう。それまでここで待っていて』

 アンソニーは笑顔で肯いた。




(おかしい──)

 人通りの失せた夜の街区、月明りが蒼白く照らす石畳の上を疾駆しながら、ケイは違和感を感じていた。
 何が、という訳ではない。強いて言うならすべてがおかしい。
 商会からの脱走を企てた瞬間に掛かってきた仕事の電話。平時から冷静沈着な男とはいえ、アンソニーの件に進展がないことに全く動じていなかった鴉。ケイを詮索したあの日のラトリーではないが、訳もない胸騒ぎを感じていた。
 駆けながらかがみ込む。頭上、0.5秒前までケイの背中が在った場所を、3本のスローナイフが音も無く飛び去っていく。殺気を知覚する前に躰が反応していた。
 かがみ込んだままで旋回し、ナイフが飛んできた方角に向き直る。薄青の月明りが人影を浮き立たせていた。スローナイフの名手"燕"の人影を。

「叫び出したい気分だろうな、クワイエット。もっとも、その叫びが『何故』なのか『やはり』なのかまでは、俺には判らんがね」

 劇場役者と見紛うほどの伊達男が、やはり役者はだしの通る声でケイに声を投げる。それきり燕の声は止み、代わりにスローナイフの投擲が再開された。
 細身の刃が群れを成し、月明りを爆ぜ返しながら水平に走る。刃先の群れに前方を阻まれたケイに照準を合わせる余裕は無い。左右は建物に挟まれており、道そのものも幅が狭い。横殴りの刃の雨が迫るなか、ケイは咄嗟に目に入った路地裏に身を躍らせた。
 そして、突き出されたナイフを銃身で受け止める。

「やはり手の内は読まれているか。まあ、関係ないが──」

 陰気な呟きを耳にしながら、ケイは考える間もなく突きの連弾を捌き続ける。気配遮断に長けた鴉の不意打ちは、かつて共闘して獲物を追い詰めた時に目の当たりにしていた。しかしそれを差し引いても、鴉が近接戦を得意としていることに変わりはない。
 だからこそ、一撃で決める。長引かせてはならない。
 鴉の細かい斬撃を懸命に捌くなか、不意にケイの姿勢が崩れた。それまでの半身の姿勢から一転、上半身が前方に大きく傾ぐ。鴉が爪先の仕込みナイフを展開した。ケイの腹部目掛けて蹴り込む。
 腹部がナイフに触れる瞬間、ケイの上半身が弓なりに反り返った。腹筋、背筋、下半身のバネを瞬時に、しかも全開まで駆動させて強引に躰を捻じ曲げる。鴉のトゥーキックが虚空を蹴り上げた。捻じ曲がった体勢のまま、空いた鴉の躰に向けて引鉄を3度引く。
 喉元、胸、腹に一発ずつ着弾。3つの発砲音が一度に谺するなか、鴉は血を溢れさせてどうと仰向けに倒れた。
 遺体を飛び越えケイは走る。走りながら目当ての物を探し求める。発砲音を聞きつけた燕がこの路地裏に来るまでに見つけねばならない。
 見つかった。雨樋あまどい。ケイはそれに掴まると、上体の筋力を駆使して恐るべき速さで登り出す。雨樋の頂点、頭上に突き出す屋根の突端に手を掛けるや一気に己の躰を引き上げた。

「鴉!」

 燕の声が響くのと、ケイが屋根の上に転がるように辿り着いたのは同時だった。ケイは直ぐさま躰を起こし、両手でグリップを把持して眼下の燕に狙いを定める。
 地べたの遺体から頭上へと顔を向けた燕に向けて発砲。額に赤黒い孔を空けた燕は、天を振り仰いだまま鴉の隣に倒れた。
 屋根の上で荒く息を吐き続け、ケイは呼吸を調ととのえる。幾分落ち着いた後で2つの遺体を狙い、額に一発ずつ銃弾を追加した。
 速やかにリロードを終えると、ケイはもと来た雨樋を滑り降りた。そして駆け出す。アンソニーのもとへ。

【続く】









 本作は、高柳総一郎さんの個人企画「おれのグロリア選手権」応募作です。
 本作は一日で書いたものです。夜11字にピーンと来たのでワーッと書き始め、そこからずーっと書き続けてたら今に至りました。
 要するに徹夜明けのテンションの産物です。お見苦しい点が多々あったかと思いますが、どうかお許しください。

 なお【続く】の言葉通り、本作は現時点で未完です。小説作品の字数上限は1万字であること(本作は9100字程度)、未完作でも応募OKだったことからこの状態で応募させていただきました。
 現在、最終章(続きの部分)執筆中です。完成させた暁には、本選手権とは別に投稿させていただきます。

 逆噴射小説大賞を除けば久しぶりに、そして存分に、小説を書く楽しさを味わうことができました。
 主催の高柳さん、素晴らしい企画をありがとうございます。最高のジャンル提示でした。多謝。