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静寂(しじま)に唄え【完全版】

 注:本作は以下の未完小説の完成版です。前半部は未完作と同じ内容ですが、加筆・訂正を行っています。








 クワイエットという己の通り名を、ケイは快く思っていない。十年前に喉をかき切られた屈辱がその名を聞くたび蘇る。たとえ他意はなくとも、かつての未熟さをなじられたような不快を感じずにはいられない。
 飼われた組織の命令で三人の男を消した夜、ケイは帰路のゴミ溜めで妙なものを目にした。
 少年だった。歳の頃は十歳にも満たないだろうか。日頃から洗髪剤を使っているであろう豊かな金髪、そして小綺麗な身なりは、明らかに浮浪児のものではない。良家の子息と思しき少年が黒いゴミ袋の上に昏倒している有様は、奇妙そのものと言える光景だった。
 銃を取り出し、ケイは周囲を警戒する。続いて少年に銃口を向け、その姿勢のまま歩み寄った。
 目立つ外傷はないが、胸の上下がやや荒い。おそらく発熱している。風邪か、あるいは重篤ではないにせよ、何かしらの病を患っているのかもしれない。
 銃口をゼロ距離で突きつけたまま、ケイは数瞬ほど逡巡する。やがて銃を収めると、少年を担ぎ上げ、背に負った。情にほだされたわけではない。素性が知れないからこそ、この一帯を仕切る組織の管理下に置いたほうが後腐れがないと判断した。ただそれだけのことに過ぎない。
 鍛え抜いた躰には重みとも呼べぬわずかな重量を背に、ケイはねぐらのアパートメントに向かった。




 ドアを開け、自室に入る。ベッドに少年を横たわらせてからランプを灯した。最低限の調度品、かすみ草の生けられた花瓶、そして少年の横顔が橙色に照らされる。
 ケイはベッドの脇にひざまずき、髪をかき上げながら自分の額を少年の額に合わせた。
 やはり熱がある。そう思った瞬間、

「──!?」

 ケイは眼を見開いた。
 脳に映像がなだれ込んでくる。銃の型番と丁数で埋め尽くされた帳簿、番号がラベリングされた白い粉末入りの袋、意味するところの推量さえできない化学式の群れ。すべて自分の知らない情報。
 そして、ある光景。
 民家の一室に男女が倒れ伏している。両人の頭部には赤黒い弾痕が穿うがたれている。血の海が広がる部屋に少年の泣き叫ぶ声が響く。男の怒声が泣き声を遮った。続いて打擲ちょうちゃく音。男に手を引かれているのか、血を流し続ける男女が遠ざかっていく。男の手が荒々しく部屋のドアを閉じた。男女の姿はドアの向こうに失われた。
 すべての光景が、主観視点・・・・の映像だった。
 ケイは弾かれたように少年から額を外した。呼吸が荒い。青褪めているのが自分でも判る。
 うう、と少年がか細いうめき声を上げる。ケイは反射的に両の手で銃を構えた。
 少年が顔を横向け、薄く眼を見開く。己に向けられた銃口に気づいているかも分からない、虚ろな視線をケイに向けて呟いた。

「──だ、れ?」

 ケイは答えず、構えも崩さない。水飴のようにねばついた沈黙が部屋中を充たしていく。
 五秒、あるいは十秒ほどの沈黙が流れた。少年の瞼が再び落ちていった。
 ケイも、ゆっくりと銃を下ろす。
 そして、深く、長い吐息を漏らした。己の作り出した沈黙の重さに耐え切れない、とでも言うかのように。




 カーテン越しの仄かな光、そして鳥のさえずりに少年は目を覚ました。
 額が冷たい。手を伸ばすと、固く絞られたタオルが載せられていた。人肌で温くなっていないのは、何度もタオルが替えられたからに違いない。
 香ばしさと甘さの入り混じった匂いが少年の鼻に届いた。ベッドから身を起こし、匂いの方向に身を向ける。
 女がいた。間仕切りのない部屋のキッチンで火にかけた鍋をゆっくりとかき回している。少年の気配に気づいたのか、女が振り返った。
 首筋に大きな傷痕。端正で硬質な顔立ち。生来のものなのか、鋭い眼光が硬質な印象をさらに際立たせている。射抜かれるような眼の光に、少年は思わず身をすくめた。

「──」

 女は声を発さず、手ぶりで少年に応答する。前にかざした手を少し下ろす仕草は、無理せず休むように、と伝えているようだった。
 女がキッチンの火を止め、鍋の中身を二つの皿に移す。両手に持った皿を二人掛けのテーブルに置くと、再び少年に手ぶりを示した。今度はさっきと逆に、差し伸べた手を上に上げている。
 立ち上がって、ここへ。手ぶりの意味するところに従い、少年はそろそろとベッドから下りてテーブルへ向かう。ミルクで溶いたコーンスープの甘く香ばしい匂いが、再び少年の鼻腔を充たした。
 椅子に腰掛けた少年に向かい、女が軽く手を差し伸べる。少年にスープを薦めると、女はスープを啜りはじめた。しばらく間を空けて、少年も匙ですくったスープを口に運ぶ。
 甘みと、温かさが、少年の口内に広がった。




『字は読める?』

 空になった二つの皿が置かれたテーブルの上で、女が紙にペンを走らせる。受けた印象そのままの硬質な文字に少年が肯くと、女も軽く肯いた。

『私はケイ。見てのとおり、喉をケガしているから喋れない。あなたの名前は?』

「──アンソニー」

『アンソニー。あなたにいくつか教えてほしいことがあるの。薬は飲ませたけど、あなたは病み上がりだから無理に喋らなくてもいい。ここまでは大丈夫?』

「うん、大丈夫」

『ありがとう。あなたはゆうべ、私のアパートの近くで倒れていた。何があったの?』

「──悪いやつらから、逃げてきた」

 ペンを執ろうとするケイの手が止まった。少年の顔を凝視した後、再びペンを走らせる。

『──悪いやつらって、どんな人たち?』

「わからない。でも絶対いい人じゃないよ、あんなやつら。大きなお屋敷の中で、よくわからないことを覚えさせられるんだ。ぼく、一度見たものはどんなものでも忘れないから」

 一度見たものは忘れない。その申告自体が驚愕に値する内容だが、ケイは敢えて質問を続けた。

『どんなことを覚えさせられたの?』

「本当にわかんないんだよ。文字と数字がびっしり書かれた紙や、番号のシールが貼られた白い粉の袋とか。カクカクした線と文字が書かれた、変な絵のようなのもあった」

 ケイは思わず唾を飲み込んだ。昨夜、自分の脳内に流れてきた情報と一致している。

『──覚えたものを、誰かに伝えることはできる? 言葉で教えるのでなく、見たものをそのまま伝えるの』

「うん。おでこ同士をくっつけると、僕の頭の中身がその人に伝わるの。どんなものを伝えてほしいか教えてくれれば、僕がそれを選んで伝える。僕の頭がぐちゃぐちゃだと、いらないものまで伝わっちゃうみたいだけど」

 アンソニーの語る内容はケイを震撼させた。昨夜の現象はまさにこれだ。しかし、真に驚くべきは我が身に起きた事柄ではない。
 情報を見たまま収納し、任意の人間にだけそれを伝える。生きた金庫のようなものだ。あとは金庫の存在さえ秘匿できればいい。そうすれば当局の追及逃れは勿論、企業や政治家の強請ゆすりも自由自在だ。言うなれば最強の矛と盾、それが産み出す利益は計り知れないものになる。

「でもね、何でもかんでも覚えられるわけじゃないんだ」

 問わず語りにアンソニーが続ける。

「毎日毎日、一度にいろんなことを覚えさせられたんだ。これまでにないくらい、たくさん。そうしていたらどんどん頭が痛くなってきて、このままじゃ頭がパンクして死んじゃうって思った。本当だよ。だから、お屋敷を出ていくトラックの荷台に隠れて逃げてきたんだ。途中で荷台を下りたけど、下りた先がどこなのかもわからないし頭も痛いまんまだし──そこからは、覚えてない。気づいたら、ケイのこの部屋にいた」

 アンソニーの独白に耳を傾けながら、ケイは思考を巡らせる。
 訊きたいことは幾らでもあった。アンソニーの出自。他者と記憶を共有できる理由。アンソニーの言う『悪いやつら』にさらわれた経緯。だが、どれも幼いアンソニーから満足な回答が引き出せるとは思えない。
 何より──質問の如何によっては、アンソニーの心を破壊しかねない。アンソニーの両親と思しき男女が息絶えたあの光景は、恐らくアンソニー自身が自己防衛のため無自覚に封印した記憶だ。それを無理矢理に暴いた結果アンソニーの心が壊れ、今後一切の情報を引き出せない廃人と化すことをケイは危惧していた。

「──ねえ、ケイ? どうしたの、黙っちゃって。ぼくはまだぜんぜん喋れるよ」

 いぶかるアンソニーをよそに、ケイは沈黙の中で質問を選り抜く。やがてペンを手に取ると、速やかに最後の質問を記した。

『ごめんね、これで最後にするわ。あなたは大きなお屋敷にいたって言ってたわね。そのお屋敷がどんな感じだったか教えてもらえる? お屋敷の大きさや形、色を教えてほしいの』

「なんだ、それならおでこを合わせればすぐだよ。ケイ、おでこを近づけてちょうだい」

 アンソニーは身を乗り出して額を前に出す。ケイも言われるがままに首を伸ばし、アンソニーと軽く額を合わせた。

「ちょっと待っててね。えーと……」

     脳内の記憶を検索しているのか、アンソニーが眼を閉じて集中する。ケイも同じく瞑目めいもくし、アンソニーの伝える光景を待つ。

「うん、あったよ。このお屋敷」

 アンソニーが声を上げると、ケイの脳裏に一つの光景が浮かんだ。小高い丘の上にそびえ立つ、白亜の城と見紛うほどの豪壮な建物。
 その建物を確かめるなり、ケイは奥歯を噛み締めた。


 この地域一帯に根を張る組織、ハーマン商会。現在のケイの雇い主。
 アンソニーの言う『大きなお屋敷』とは、ハーマン商会の本部そのものに違いなかった。




 ケイとアンソニーの奇妙な、しかし穏やかな共同生活が始まりつつあったある日のこと。
     ケイのもとに、ハーマン商会本部からの緊急召集が通達された。召集リストを見ると、ハーマンの子飼いの中でも最精鋭の者だけが集められている。

『お仕事に行ってくるわ。良い子にして待っていて』

 ケイの筆談にアンソニーは元気よく肯く。
 あの日のやり取り以来、ケイはアンソニーに自室から一歩も外に出ないよう言いつけていた。幼いアンソニーには酷な話かと思えたが、アンソニーはむしろ嬉々としてケイの部屋に居続けている。実際、無理な情報の詰め込みから開放されたためか、アンソニーの容態は日を重ねるごとに快方へ向かっている。甲斐甲斐しく部屋の雑事をこなすアンソニーを、ケイは微笑ましく思っていた。
 アンソニーに笑みを浮かべた後、ケイは部屋のドアを開ける。後ろ手にドアを閉めると、溜息を吐いた。
 ──何故、商会に報告しないのか。
 幾度となく繰り返した自問に一度も満足な回答を出せぬまま、今この時にまで至っている。即座に商会に届け出ず、あげく素知らぬ顔で緊急招集に応じる己の矛盾を、他ならぬケイ自身が訝しんでいた。


「いいか、これから俺が言うことはハーマン商会秘中の秘だ。一言でも外に漏らした奴ァ生きたまま豚の餌にする」

 子飼いの精鋭が居並ぶ会長室で、禿頭のハーマンは開口一番にそう告げた。

「今日ここにお前らを集めたのは他でもねえ。──ガキだ。このガキを探せ」

 ハーマンが低い声で告げる。指先でアンソニーの写真をつまみながら。

「名前はアンソニー=カーター。当然だが只のガキじゃねえ、ある能力を持ったガキだ。このガキの身柄はうちが押さえていたが、せんだって煙のように消えやがった。こいつさえ手元に置いときゃハーマン商会は安泰、そう言い切っても過言じゃねえ」

 そこまで喋ると、ハーマンはふうっと溜息を吐く。
 そして、見る間に顔を紅潮させ、全身をぶるぶると震わせた。

「──安泰だったんだよ。手元に、置いてさえ、いりゃあ!」

 怒号を放つや子飼いたちに背を向け、鉄板入りの靴でマホガニーの机を蹴りつける。雄叫びを上げるハーマンが滅多やたらに蹴りつけるうち、豪壮な会長机は見る間に廃材と化した。
 蹴りを乱打したハーマンがぜいぜいと肩で息を吐く。そうするうちに幾分落ち着いたのか、平静を取り戻した調子で子飼いたちに告げた。

「手元から離れりゃあお前らの首どころじゃねえ。この俺が、ハーマン商会が、丸ごと吹っ飛んじまうような代物だ。監視役の連中は全員豚の餌にした。捜索隊も組んだが使えねえ、そいつらも餌にしちまった。──てめえらも餌になりたくなけりゃあ、探せ。草の根分けてもガキを探せ!」

「見つけたときの報酬は、いかがなもので──」

 声の方向に全員の視線が注がれた。
 子飼いの一人、ラトリーだった。"蛇"の通り名をそのまま体現したかのような異様に長い手足、粘着質な性格、そして残虐性から、ハーマンの小飼い同士においても忌避され、恐れられている。怒り狂うハーマンを前に平然と報酬の話を切り出すあたりも含めて、やはり常軌を逸した感性と言えた。
 
「報酬だあ──」

「ええ、報酬です。もちろん豚の餌になるのはまっぴら御免ですが、鞭だけでなく飴もしゃぶらせてくれれば一層身が入りますので」

 怒気に満ちたハーマンの視線を真正面から受けつつも、ラトリーはそれを往なすかのようにへらへらと応じる。毒気を抜かれたのか、ハーマンの表情に幾らかの呆れが混じった。

「──良いだろう、そん時ゃ昇進だ。一足飛びに幹部にしてやる。それからもう一つ、何でも欲しい物を言え。金、女、コネクション、分をわきまえる限りはくれてやる」

「おほっ! 大盤振る舞いじゃあないですか。お任せ下さい。このラトリー、最善を尽くしてボスのご厚意に報いますので」

「報いるのが当たり前だ! 他の連中も忘れるな。例えくたばってもこのハーマンに報いろ! 以上!」

 部下たちが会長室を後にする。ハーマンの犬の群れに混じり、ケイは凍てついた表情の下で必死に考えを巡らせていた。進退を決めねばならない。早急に。

「浮かない顔ですねえ、クワイエット──」

 絡みつくような声色に、ケイは思わず身を震わせた。歩調を合わせたラトリーが、ぴたりと側に付いている。

「心中お察しいたしますよ。首尾よく進めば幹部ですが、下手をすれば豚の餌ですからねえ。嫌ですねえ、生きたまんまで豚の餌。ああ、想像するだけで嫌だ嫌だ。もっとも、それはこのラトリーも同じなのですが──」

 ラトリーは一人でまくし立て、何が可笑しいのかふぇっふぇっと笑い声を上げている。たとえアンソニーの一件がなくとも、ケイはこの男と一切の関わりを持ちたくなかった。

「ところで貴女、何か隠してますね」

 抜き打ちの一言にケイの心臓が跳ねた。
 心臓だけだ。歩調にも表情にも一切のブレは生じさせていない。ケイは自然に歩みを止め、鉄面皮のままラトリーの眼を見据える。
 演技は完璧だ。ばくばくと跳ね回る心臓にさえ気づかれなければ。
 ラトリーも歩みを止め、ぬめるような視線をケイに這わせる。ラトリーへの嫌悪感をも忘れるほど、ケイは暴れ狂う己の鼓動を疎ましく思った。
 ケイにとって永遠と思える五秒弱が経過した時、ラトリーが溜息をついた。

「……気のせいでしたか。いや、気を悪くしないでくださいね。職業柄ですかねえ、時々何の根拠もなく人を疑ってしまうんですよ。悪いクセです、悪いクセ……」

 ラトリーの職務を脳内で反芻し、ケイは軽い吐き気を催した。
 尋問、そして拷問。正面切っての戦闘でもラトリーは図抜けているが、本人は実行部隊に就くことを避けこれらの職務に執心している。それは人に絡みつき、際限なくいたぶることを悦びとするこの男にとっての天職に違いなかった。

「あらぬ疑いをかけたことをお詫びしますよ、クワイエット。この償いは、いずれ必ず」

 声を発せぬケイに一礼し、ラトリーは歩み去っていった。去り際に一声を残して。

「願わくば、あらぬ疑いのままであってほしいと思いますよ。私もね──」

 躰にかすかな震えが走る。
 それが嫌悪感と怯えのどちらに因るものか、ケイには判断がつかなかった。




「──どうしたの、ケイ?」

 アンソニーの声に、ケイは我を取り戻した。手をつけることなくスープを凝視している様を見て、アンソニーが訝しがっている。

「疲れてるの? 大丈夫?」

『──ごめんなさい、考え事をしていたの。あなたの方こそ大丈夫? 体の調子は戻った?』

「うん。色々覚えさせられることもないからだいぶ楽になったよ。ケイがこの部屋に泊めてくれているからだよね、ありがとう」

 アンソニーの無邪気な感謝がケイの心に突き刺さった。突き刺さった感謝の言葉はケイの心をかき乱し、再びケイを思考の底に沈めていく。
 豚の餌にも幹部の座にも興味はない。ただただ職務をこなす事しか頭にないが、惰性と言われればその通りだと思う。
 幼くして両親を亡くし、頼る伝手つてもないまま迷い込んだのが裏の世界だった。生きるためには何でもやった。女を捨て、声を捨て、誰かを殺し、己を殺し続けるうち、この世界で生き抜いていくための最適な姿をものにした。疑問も、希望も、絶望もなく、ひたすらに人を殺め続ける。ただそれだけの存在に成り果てた。他の生き方など知らない。今更知り得るはずもない。

 ──アンソニーも、私と同じ道を辿るのかも知れない。

 ぼんやりと、しかし確信を持ってそう思った。この子の境遇は、かつての自分と似過ぎている・・・・・・


「ねえケイ? またぼーっとしてるよ、本当にだいじょう──」

『アンソニー、話があるの』

 ケイがペンを走らせるのを見て、アンソニーが言葉を呑んだ。

『お屋敷に戻りたいと思う?』

「なんだいいきなり。絶対嫌に決まってるよ、あんなところ」

『そうよね。じゃあアンソニー、帰るおうちはある?』

「え。…………わかん、ない。何でだろう、思い出せないや」

『いいの、無理に思い出そうとしなくて。──それじゃあ、私と一緒に暮らさない? あなたが帰る家を思い出すまでの間、ずっと』

「いいの!?」

『ええ、もちろん。でもね、この家はもうすぐ出ていかなくちゃならないの。引っ越すことになるけどいいかしら?』

「どこだっていいよ! ケイと一緒なら!」

 声を弾ませるアンソニーに、ケイは微笑を浮かべた。
 救いたいのはこの子か、それとも在りし日の自分か。どちらであろうと構わない。久しく忘れていた温もりを与えてくれたこの少年と、共に過ごせるのであれば。
 アンソニーに温かい微笑みを向けるかたわら、ケイは冷めた頭で商会の足抜けを考え始めた。最も足がつきにくく、追手を撒きやすいルートはどれか。思いつく限りの逃走経路をずらりと並べ、脳内での試行を繰り返す。
 突然、受話器のベルが鳴り響いた。商会の仕事の連絡だ。ケイに友人はいない。
 ケイはアンソニーに向かい唇に人差し指を立てる。アンソニーも無言で肯いた。元よりアンソニーには小声で会話するよう言いつけているが、電話の際には物音一つ立てることも許されない。
 ケイは受話器を取った。

「"鴉"だ。クワイエットか」

 陰気な男の声だった。ハーマンの子飼いの一人、ケイも何度か仕事を共にした事がある。
 通話口の縁に人差し指で、コツ、と一回音を立てた。口が利けないケイへの通話は、すべてイエスとノーでやり取りされる。音を一回立てればイエス。二回ならノー。

「仕事だ。例の件は関係ない。ルシアンの連中が造反を計画している事が判った」

 ハーマン商会の下部組織、ルシアン商会の造反計画。断定的な物言いからして、確かな証拠を得ているらしい。

「会長と副会長を消せ。護衛がいればそれも含む。なお現地での再調査は不要」

 ──コツ。

「良し。場所は見せしめの意味を込めてルシアン商会本部前。お前の他には俺と"燕"が向かう。今から二十分以内に来い。できるか」

 ──コツ。

「良し。本件の連絡は以上。最後に、例の件について何か掴んだか」

 ──コツ、コツ。

「了解。こちらも特に情報はなし。本部にはそう伝える。以上」

 通話が切れたことを確認し、ケイも受話器を置く。

「おしごと?」

 アンソニーが小声で尋ねる。ケイは肯き、ペンを執った。

『このお仕事が終わったら引っ越しましょう。それまでここで待っていて』

 アンソニーは笑顔で肯いた。




(おかしい──)

 人通りの失せた夜の街区、月明りが蒼白く照らす石畳の上を疾駆しながら、ケイは違和感を感じていた。
 何が、という訳ではない。強いて言うならすべてがおかしい。
 商会からの脱走を企てた瞬間に掛かってきた仕事の電話。平時から冷静沈着な男とはいえ、アンソニーの件に進展がないことに全く動じていなかった鴉。ケイを詮索したあの日のラトリーではないが、訳もない胸騒ぎを感じていた。
 駆けながらかがみ込む。頭上、半秒前までケイの背中が在った場所を、三本のスローナイフが音も無く飛び去っていく。殺気を知覚する前に躰が反応していた。
 地を這う姿勢のまま旋回し、ナイフが飛来した方角に向き直る。薄青の月明りが人影を浮き立たせていた。スローナイフの名手"燕"の人影を。

「叫び出したい気分だろうな、クワイエット。もっとも、その叫びが『何故』なのか『やはり』なのかまでは、俺には判らんがね」

 劇場役者と見紛うほどの伊達男が、やはり役者はだしの通る声でケイに声を投げる。そのまま踊るような仕草で投げた物は声でなく、スローナイフの雨だった。
 細身の刃が群れを成し、月明りを爆ぜ返しながら水平に走る。刃先の群れに前方を阻まれたケイに照準を合わせる余裕は無い。左右は建物に挟まれており、道そのものも幅が狭い。横殴りの刃の雨が迫るなか、ケイは咄嗟に目に入った路地裏に身を躍らせた。
 そして、突き出されたナイフを銃身で受け止める。

「やはり手の内は読まれているか。まあ、関係ないが──」

 陰気な呟きを耳にしながら、ケイは考える間もなく突きの連弾を捌き続ける。気配遮断に長けた鴉の不意打ちは、かつて共闘して獲物を追い詰めた時に目の当たりにしていた。しかしそれを差し引いても、鴉が近接戦を得意としていることに変わりはない。
 だからこそ、一撃で決める。長引かせてはならない。
 鴉の細かい斬撃を懸命に捌くなか、不意にケイの姿勢が崩れた。それまでの半身の姿勢から一転、上半身が前方に大きく傾ぐ。鴉が爪先の仕込みナイフを展開した。ケイの腹部目掛けて蹴り込む。
 ナイフが腹部に触れる瞬間、ケイの上半身が弓なりに反り返った。腹筋、背筋、下半身のバネを瞬時に、しかも全開まで駆動させて強引に躰を捻じ曲げる。鴉のトゥーキックが虚空を蹴り上げた。捻じ曲がった体勢のまま、ケイは空いた鴉の躰に向けて引鉄を三度引く。
 喉、胸、腹に一発ずつ着弾。三つの銃声が一度にこだまするなか、鴉は血を溢れさせてどうと仰向けに倒れた。
 遺体を飛び越えケイは走る。走りながら目当ての物を探し求める。銃声を聞きつけた燕がこの路地裏に来るまでに見つけねばならない。
 見つかった。雨樋あまどい。ケイはそれに掴まると、上体の筋力を駆使して恐るべき速さで登り出す。雨樋の頂点、頭上に突き出す屋根の突端に手を掛けるや一気に己の躰を引き上げた。

「鴉!」

 燕の声が響くのと、ケイが屋根の上に転がるように辿り着いたのは同時だった。ケイは直ぐさま躰を起こし、両手でグリップを把持して眼下の燕に狙いを定める。
 地べたの遺体から頭上へと顔を向けた燕に向けて発砲。額に赤黒いあなを空けた燕は、天を振り仰いだまま鴉の隣に倒れた。
 屋根の上で荒く息を吐き続け、ケイは呼吸を調ととのえる。幾分落ち着いた後で二つの遺体を狙い、額に一発ずつ銃弾を追加した。
 速やかにリロードを終えると、ケイはもと来た雨樋を滑り降りた。そして駆け出す。アンソニーのもとへ。




 夜空の一角が赤と橙に染まっている。ケイのアパートメントの方角だ。今頃は火柱を噴き上げながら崩落しているに違いない。
 元よりケイにはアパートに戻るつもりなど無かった。今走っているのは別の道、アパートからハーマン商会本部に向かうまでの最短ルートだ。ハーマンはアンソニーを車に載せたに違いない。ハーマン達の乗った車に追いつけるとは思っていないが、一秒でも早くアンソニーの許に辿り着かねばならない。
 街区を抜け、街道を抜け、車一台が通れる裏道へ。そこも抜ければ山道に出る。丘の上に立つハーマン商会へのショートカット。
 未舗装の急勾配を必死の形相で駆け上る。常人に比べれば凄まじい速度だが、ケイにとっては水中を走るように脚が進まずもどかしい。燕と鴉の連戦、その後間を置かずに長距離を走り抜いた疲労が全身をさいなんでいる。
 丘の中腹の広場まで辿り着いた時、ケイは己の目を疑った。
    広場の中央、月明りの下でハーマンの車が停まっている。内部に人影らしきものが見えるが、この地点からでは詳細が確認できない。
 しばし呆然と立ちすくんだ後、ケイは銃を抜いた。構えたまま、周囲への警戒を切らさずそろりそろりと車両へ近づく。車両まで十五メートルの距離に近づいた時、車両内部の人影が像を結んだ。
 ハーマンだった。後部座席に座ったまま身じろぎ一つしない。
   違う、すでに息絶えている。眼を凝らして見れば、頭部に何かが突き刺さっていた。

 柄の両端に直刃を付けた短剣。ラトリーの愛用品。 

「──!!!」

 ケイが後方に飛び退いて地に躰を躍らせる。着地する直前、ハーマンの車が爆発した。爆炎が月夜を焦がし、衝撃波が破片と噴煙を引き連れて四方に拡散する。ケイは地に顔を伏せ、爆音と熱と衝撃に耐えた。
    やがて衝撃が過ぎ去り、噴煙が薄れていく。
     周囲の木立こだちをかき分ける音がケイの耳に入った。続いて、歩み寄る足音。そして、粘り気に満ちた不快な声。

「おや、おや、おや。流石ですねえクワイエット。気づかれる事が前提とはいえ、ああも早いタイミングで爆発を見切るとは……」

    ケイは地面から躰を引き剥がそうとし、べしゃりと崩れ落ちる。もう一度手を地につけた後、よろめいて立ち上がった。
 脳が揺れている。極度の疲労、そして爆風に打ち据えられた己の躰を、ケイは気力だけで支えていた。愛銃は手離していない。だが思うように腕が上がらない。切れた息を吐きながら上目遣いに視線を向ける。
 そして、瞠目どうもくした。
 燃える車を背景に立つラトリーが、何かを背にぶっている。前方に回した手足を革のベルトで幾重にも固定された少年。ラトリーの左肩から覗かせる、猿轡さるぐつわを噛まされた顔。橙の炎を照り返す豊かな金髪、そして怯えと涙を浮かべた瞳。
 アンソニー。

「ーーーーー!」

 声を失くしたことも忘れ、ケイがアンソニーの名を叫ぶ。声にならぬ掠れた叫びが放つそばから掻き消える。ラトリーが声を立てて嗤った。

「ふぇっふぇっ、いやはや美しい。子を思う母の姿とは実に尊く、美しいものですねえ。このラトリーも感じ入ることしきりですよ。たとえそれが、まがいの母子おやこであろうとね──ふぇっふぇっふえっ」

 ケイの瞳が憎悪に燃えた。疲労を塗り潰すほどの怒りで躰を支えつつ、両腕を無理矢理に持ち上げ銃口を向けようとする。その動きをラトリーが制した。

「まあ、お待ちなさい。今の貴女の銃弾を躱すことなど造作もない。息を調えるついでに私の話を聞くのはいかが?  ここまで辿り着いたご褒美です、教えて差し上げましょう──すべてをね」

 そう言うとラトリーは、背負ったアンソニーの顔を親指で差した。

「まず、このアンソニー君ですがね。逃したのは私です」

 ケイの両眼が大きく見開かれた。

「と言っても、アンソニー君と直接コンタクトを取っていたわけではありません。私はただ誘導しただけ。監視役の四人を昏倒させるとともに、出入り業者のトラックの荷台にアンソニー君が潜りこめる隙間を作る。そうやって脱走のお膳立てをしてあげたのです。おかげで監視役の皆さんは豚の餌になりましたがねえ。ああ嫌だ嫌だ、生きたまま豚の餌になるだなんて」

 ラトリーがふぇっふぇっと嗤った。心底から愉快そうに。
 ケイの眼光が果てしなく鋭さを増していく。相対した者をおののかせるという点では、今のケイの眼光はハーマンの怒気すら凌ぐだろう。その視線を真っ向から浴びて、ラトリーはなお笑みを絶やさない。

「ふぇっふぇっ、目は口ほどに物を言い、ですか。聞こえてきますよ、『何故そんな事をしたのか』という声が。──しかし、その質問は後回しです。まずは何故、貴女の帰路にアンソニー君がいたのか。そちらの方が先でしょう」

 ねえ? とラトリーはアンソニーに顔を向ける。猿轡を噛まされ不明瞭なうめき声しか出せないアンソニーの姿に、ラトリーはまたしてもふぇっふぇっと嗤った。

「まあ、これも単純な話。商会の出入り業者のうち、貴女のアパートメント近辺の街区しか巡回しない車両を選んだのですよ。あの辺りは民家や商店も少なく、ゴミ溜めも一つしかない。疲労困憊の浮浪児が体を休ませようと思えば、自然とクッション代わりのゴミ袋に吸い寄せられるものです。──経験がお有りでしょう? 貴女も。そして私も」

 ふふふ。と、ラトリーは自嘲気味に笑った。

「さて、いよいよ本題です。私が何故、貴女とアンソニー君を引き合わせたのか。それはね──貴女を手に入れるためですよ。クワイエット・ケイ」

 ラトリーの眼が下卑た光を帯びた。蛇のように肢体に纏わりつくラトリーの視線、それをケイは眼光で跳ね返す。その様子にラトリーは落胆も激昂もせず、それどころか快哉の声を上げた。

「そうです! その気高さ! 私と同じ最底辺の出自でありながら、凛と咲くその美貌、その姿勢!」

 口の端まで裂けるような笑みを浮かべてラトリーが続ける。

「気づいていませんでしたか、心中深くに根ざした慈しみに。アンソニー君に憐れみを覚えるだけの慈悲心と、それが放つ美しさに。私は気づいていましたよ、何故って私には無いものですから。人間は自分に無いものを求めるものです。だからこそ、私は貴女が欲しかった!」

 高らかに叫ぶと、ラトリーは素の顔に戻った。いつもの薄ら笑い、ラトリーにとっての素の顔に。

「さあ、そこに来てのアンソニー君です。この子はボスにとって文字通りの秘蔵っ子、どのような対価を払おうと取り戻すに決まっています。──だから、私は飴を要求したんですよ。出世、そして貴女を手に入れる口実をね。幸いボスの方から両方提示してくれましたが、あの分だと私の方からお願いしても通ったでしょうねえ」

 ふぇっふぇっといつものように嗤う。 

「──でもね。彼は嘘つきだった」

 そして、ラトリーは哀しげな表情を見せた。

「アンソニー君を回収した私は、ボスに要求したのです。約束通り幹部のポスト、そしてクワイエット・ケイを頂戴したいと。ボスは何と言ったと思います? ──幹部にはしてやる、だが分を弁えろ、と言ったのですよ。下衆な性根のお前では、クワイエットに不釣り合いだってね」

 ばりばりと頭を掻きむしりながらラトリーが喚く。

「あんまりじゃあないですか。切ないじゃあないですか。私は自分に無いものが欲しかった、なのにその事を理由に話を反故にされるだなんて。しかも悲しい事には、ボスの意見は的を射ているのです。それが自分でも判るだけに、もうどうしていいかわかんなくなっちゃったんですよ。もうどうすればいいかわかんなくってしょうがなくなっちゃったから、あ、あ、あ、あ、あーーーーー」

 半狂乱でまくし立てるラトリーの声が、言葉の形を失くしていく。涎を垂らして天を仰ぎ、抑揚のない声を発し続ける。
 そうするうち、ラトリーの声がぴたりと止んだ。

「────殺しちゃった」

 ケイの躰に怖気おぞけが走った。
 向き直ったラトリーの顔から一切の表情がけている。両の眼は石と見紛うほど何も反映していない。ラトリーの瞳がたたえる底無しの虚無、それに引きずり込まれる感覚をケイは抱いた。

「おや? おやおやおや? 怯みましたねクワイエット。ダメですねえ、それじゃあダメ。貴女にはいつまでも気高く在ってほしいのですよ。私のような下卑た男に左右される貴女で在ってほしくない。──さあ、独演会はここまでです」

 ラトリーは腰から得物を引き抜いた。柄の両端に槍の穂先めいた両刃を取り付けた短剣、それを左右の手に携える。

「少しは回復しましたか? 狙いはつけられそうですか? ようく狙ってお撃ちなさい。当たり所が悪ければアンソニー君も巻き添えです。子殺しの母にはなりたくないでしょう、それは私も同じです」

 ちゃき、とラトリーが短剣を鳴らす。

「手に入らぬのなら死になさい。気高く尊く美しい、母の姿のままで死になさい。その様を眼に灼きつけたいのですよ、私は──!」

 来る。
 ケイが銃を構えた瞬間ラトリーも動いた。直進ではない。右、左、右。的を絞らせない動き。アンソニーを背負ったままにもかかわらず、稲妻そのものの速度と軌道でケイに接近する。ラトリーが猛烈な勢いで掌の短剣を回転させた。

「シャアッ!」

 通り名の"蛇"そのままの叫びとともに放たれた斬撃がケイの脇腹を斬り裂く。苦痛に顔を歪めながらも、ケイはラトリーの胴体に銃口を向けた。躰が重い。だがこの距離ならば撃てる。

「撃てますか!?」

 ラトリーの獰猛な笑みがケイの眼に広がる。怯えるアンソニーの顔も。

「──!」

 引鉄に掛けた指が強張った。撃てば銃弾はアンソニーをも貫く。
    鞭のようにしなるラトリーの脚がケイをしたたかに打ち据えた。砂埃を巻き上げながらケイが地べたに転がる。よろめきながら立ち上がると、ラトリーの嗤う顔と恐怖に震えるアンソニーの顔が眼に映った。最初と同じ状況。

「足掻きなさい。すぐには殺しません。足掻いて、足掻いて、足掻き続ける、美しい貴女をもっと眺めていたいのですよ。一秒でも長くね──」

 再びラトリーが稲妻の軌道を描く。銃口の捕捉を許さない高速移動、わずかでも狙いが逸れればアンソニーも被弾する。
 成す術なく接近を許したケイに、ラトリーが短剣を回転させつつ斬撃を見舞う。腹部を斜めに切り裂き、そのままケイを蹴り飛ばす。
 そのやり取りが、四度続いた。



「そろそろ終わりにしましょうか、クワイエット──」

 ラトリーの宣告に、ケイは躰を震わせて立ち上がった。肩で息づくその躰は、余す事なく血と埃に塗れている。愛銃を握る両の手は、だらりと力なく垂れ下がっている。
 だが、ラトリーを射抜くかのような眼光は失われていない。

「…………素晴らしい。本心から感服しておりますよ。やはり貴女は美しい、この上なく」

 両の手に握る短剣を、ラトリーは強く握り締めた。

「十分に堪能させてもらいました。敬意を込めて、最後は一太刀で終わらせましょう。心配せずともよろしい、アンソニー君も速やかに後を追わせます──それでは、さようなら。クワイエット・ケイ」

 ラトリーが脚に力を籠める。
 瞬間、ケイも両腕を跳ね上げた。射抜かんばかりの眼光そのまま、一点に向けて躊躇いなく引鉄を引き絞る。
 発砲音。

「がッ、あァッ!?」

 苦悶と驚愕の声を上げつつ、ラトリーが前のめりに転倒した。背にしたアンソニーのくぐもった喚きが聞こえる。
 その様を確認したケイは、ラトリーに近寄ろうとせず身を翻す。そのまま背後の木立に姿を消した。

「……やって、くれましたね! 出掛かりの軸足を狙うとは……!」

 激痛に悶えつつもラトリーは身を起こした。左太腿に穿うがたれた弾痕から止めどなく赤黒い血が流れ出ている。
 稲妻の軌道を描く初動、左脚に力を籠める一瞬だけラトリーの動きは止まる。その瞬間を狙撃された。繰り返されるラトリーの軌道にケイの目が馴れていたにせよ、コンマ何秒かの間隙を突いて精密射撃を成功させるのは尋常の業ではない。
 満身創痍、そしてアンソニーの存在ゆえに手も足も出ない。そのようにケイを侮っていた事を、ラトリーは深く悔い、恥じた。

「……良いでしょう、この傷は戒めとして受け取ります。今度こそ遊びは終わりです」

 銃弾は貫通している。ラトリーは衣服の両袖を切り裂くと、それを太腿の銃創部に幾重にも固く縛り付けた。
 ひとまずの処置を終えると、左脚を引きずるようにして歩みだす。ケイの消えた木立の中へ。




 木立に踏み入った瞬間、ラトリーは己を取り囲む暗闇に押し包まれる感覚を抱いた。
 完全な闇ではない。木々の陰は濃いが、薄青の月がかすかな光明をもたらしている。月明りを頼りに目を凝らせば、先に林へ入ったケイの足跡も視える。追う手立ては残されている。

「…………く……」

 しかし、ラトリーは顔を歪めた。銃創の苦痛ばかりではない。左太腿の止めどない出血、そしてケイの作り出した状況に誘い込まれた事実が、ラトリーから余裕を奪っている。
 猶予は残されていない。失血死を迎える前に何としても殺さねば。気高く、尊く、美しい、あの女を。どれほど焦がれても自分の物にできなかった憧れのひと、クワイエット・ケイを。この手で。
 血走る眼を凝然と見開きながら、ラトリーは土に残された足跡を辿る。得物の短剣を両手で持ち、刃先を下に向けた姿勢。その体勢のまま左脚を引きずり、絶え間なく周囲を警戒し続ける。
 ケイの狙いは読めている。彼女が得意とする高所からの狙撃だ。自分がアンソニーに刃を向ける隙を与えず、さらにアンソニーを巻き添えにしない角度から一撃で仕留める。左太腿の狙撃後に距離を詰めず、敢えてこの地に退がった理由はそれしかない。
 思考を巡らしつつ、ラトリーは手にした短剣の仕込みを確認した。柄に内蔵したバネで刀身を撃ち出す機構。ケイが己に照準を合わせるその前に、ケイを見つけ、刃を撃ち込む。
 真っ直ぐに続いていたケイの足跡が右に曲がった。狙撃ポイントを探すのに手間取ったことが伝わる。ラトリーは荒い息を吐きながら右に進み、これまでにも増して眼を凝らした。ケイが身を潜めるなら近くだ。彼女にしたところで、木立の中を縦横に駆け巡るほどの体力は残されていない。この足跡の続く先、さほど離れていない位置に、彼女は居る。必ず。
 全身に殺気を漲らせてラトリーは足跡を辿る。遅々とした足取りで、しかし極限まで集中を研ぎ澄ましてケイの痕跡を探り続ける。
 そうする内、ある物を前方に捉えた。
 十五メートルほど先、行く手を阻むかのように生える一本の木。幹は太く、背も高い。
 辿り続けた足跡は、木の根本で途切れている。

「──!」

 ラトリーが両腕を跳ね上げた。まなじりを裂き、口角を耳まで吊り上げたけだものの顔。狂暴な歓びに震えながら刀身射出の構えを取り、両の眼をせわしなく動かして樹上のケイの姿を探る。
 しかし、居ない。何処にも。

 銃声がこだました。

「──あ────」

 後頭部に凄まじい衝撃を受けたラトリーが崩れ落ちる。地べたに倒れ伏す間際、二つの事柄が脳裏を巡った。
 一つは、バックトラック。直進が続いた後で右に折れた足跡は、言うなれば撒き餌。ケイは前方の木まで歩いた後、後ろ向きに同じ足跡を残しながら引き返したに違いない。そして曲がり角に生えていた木に登り、そこから自分の後頭部を狙撃した。
 もう一つは、無念。己が最後に眼にする光景がケイの姿でないという事実に、ラトリーはてなき無念を抱いた。
 せめて、彼女の痕跡を目に灼きつけたい。
 独りでに閉じようとする眼を無理矢理に見開き、ラトリーはケイの足跡が残る地面を凝視する。倒れゆくラトリーの眼前にケイの足跡が迫る。
 足跡の残る地べたに顔を打ちつけたきり、ラトリーの意識は絶えた。主を失った血液が頭部と左太腿から際限なく流れ続ける。土に残された足跡の窪みを、ラトリーの鮮血が覆い尽くした。


「…………」

 ラトリーが事切れた事を遠目に確認し、ケイは樹上から滑り降りる。ラトリーのむくろに歩み寄り、その手に握られた短剣をもぎ取った。
 全身が軋みを上げている。上手く動かぬ手がもどかしい。ケイは骸に巻きつけられた拘束ベルトを断ち切り、猿轡を解くと、骸から引き剥がしたアンソニーを胸にかき抱いた。
 外傷はない。救い出せた、無事に。

「──?」

 ケイは訝しんだ。抱きしめたアンソニーの躰が震え始めている。震えは大きくなるばかりで治まる気配がない。ケイはアンソニーから躰を離し、そして息を呑んだ。
 眼の焦点が合っていない。がたがたと全身を震わせながら矢継ぎ早に呼吸を繰り返している。過呼吸の隙間からあ、あ、あ、とか細いうめき声が漏れ出ている。

「──!」

 事態を察知したケイは青褪めた。
 記憶のフラッシュバックだ。アンソニーが無自覚に封印していた禁忌の記憶、両親が頭部を撃ち抜かれた光景。ラトリーの後頭部への狙撃を目の当たりにしたことで、その光景がアンソニーの脳裏に蘇ってしまった。 
 ケイは歯を食いしばり、涎を垂らして震え続けるアンソニーを強く抱きしめた。そして眼を強く閉じ、額をアンソニーに合わせる。解決策は見当たらない。これが満足な介抱になるかも判らない。ただこうせねばならない、こうする他は無いという思いに駆られていた。
 ケイの脳内にアンソニーの記憶がなだれ込む。
 血溜まりの床。倒れ伏す両親。ニヤついた笑みを浮かべるハーマン。数字と暗号文の羅列。箱詰めされた銃器。廃屋の壁に埋め込まれた貴金属の山。政府高官とマフィアの密会写真。男たちの怒号。銃声。悲鳴。泣き叫ぶ声。打擲音。絶叫。
 おびただしい記憶の嵐、常人の処理速度を遥かに超える情報の濁流が己の脳に注がれる。ケイは破裂しそうな頭痛を覚えた。両眼と鼻が血を流す。しかしケイはアンソニーの頭を両手で抱え、決して額を離そうとしなかった。

(完全記憶能力、そして記憶伝達能力か。眉唾だと思っていたが、まさか実在するとはな──)

 乱れ飛ぶ映像と叫喚に混じり、野太い声が聴こえてきた。男のもの。ハーマンの声。禿頭の男の姿が浮かんでくる。

(資料を貸せ。──へえ、記憶の伝達は相互に可能か。つまり俺の記憶もこのガキに伝えられるってわけだな。よし、試しに一つ伝えてやる──)

 ハーマンがごつりと額を合わせた途端、映像が脳に流れ込んできた。廃屋の壁に埋め込まれた貴金属の山。恐らくはハーマンの隠し財産。

「!」

 ケイは流血する眼を見開いた。
 記憶だ。心に根深い傷を負ったアンソニーをいこわせることのできる、優しく、穏やかな記憶。それを伝え続ければアンソニーが治まるかもしれない。
 ケイは再び眼を閉じた。情報の氾濫に脳を灼かれつつ、必死に己の記憶を探り始める。
 そして、絶望した。殺しの記憶しか浮かばない・・・・・・・・・・・・
 怯えた顔。呆けた顔。額に空いた弾痕。腕を伝わる銃の反動。銃口から流れ出る硝煙の匂い。流れ出る血の匂い。
 殺して、殺して、殺して、生きるためにひたすら殺し続けた記憶。どれだけ過去を遡ろうとそれしか頭に浮かばない。がくがくと震えるアンソニーの頭を抱えながら、ケイは奥歯が砕けんばかりに歯噛みした。血に塗れ続けてきたし方を呪った。己の人生そのものを呪った。
 前触れなく、一つの記憶が蘇った。自分でも忘れていたほどのふるい記憶。
 貧民窟の一画、ランプの灯も点けられていない真っ暗な小部屋。幼くして死に別れた、顔も憶えていない母親が何かを唄っている。
 子守唄だった。襤褸ぼろ同然の毛布に包まる自分に寄り添い、低い声で唄い続けている。どこか物悲しく、しかし安らぎを与える声と音律。
 ケイは記憶の底に潜り、無我夢中で母親の唄に耳を澄ます。かじりつくように聴き続け、歌詞と音律をかき集める。そうして、忘却の果てに失われた一つの唄を取り戻す。
 その唄を、声に乗せた。喉が発する声ではない。自分の脳裏に浮かぶ声、記憶に残る在りし日の声に。


 かもめよかもめ なぜ飛ぶの
 かもめの下には青い海
 かもめは海には入れない
 かもめの上には白い雲
 かもめは雲には届かない
 かもめはゆうるり 飛んでいく


 アンソニーの震えは続いている。しかし僅かに、確かに、震えの程度がしずまった。
 ケイはアンソニーの頭を強く抱いた。唄え。唄え。唄え。


 かもめよかもめ どこ行くの
 まだ見ぬおかへ飛んでくの
 かもめの下には青い海
 白いかもめはひとりだけ
 かもめの上には青い空
 白いかもめはひとりだけ

 口に小魚くわえたかもめ
 ゆうるり飛んで どこへ行く


 自ずと口が動いていた。声にもならぬ掠れた音を発しながら、アンソニーだけに聴こえる声で唄い続ける。何度も、何度も、何度も、繰り返し子守唄を届ける。己のうちに唯一残る、安らぎの記憶を伝えるために。
 アンソニーの震えが徐々に鎮まっていった。やがて震えが完全に治まり、眼の焦点が合わさっていく。
 意識を取り戻したアンソニーは思わず声を上げた。息がかかるほどの距離で、ケイが眼を閉じて唄を口ずさんでいる。アンソニーが意識を取り戻したことにも気づかないまま、ケイはアンソニーに額を合わせ、ひたすらに子守唄を繰り返していた。

「──ケ、イ?」

 己の名を呼ぶ声に、ケイはようやく我に帰った。咄嗟に眼を開くや額を離し、呆然とアンソニーを見つめる。

「…………いい唄だね。それに、すてきな声。ケイがそんなきれいな声だなんて思わなかったよ。びっくりしちゃった、ぼく」

 ケイの瞳に涙が滲んだ。滲んだと思う間もなく溢れ出た。止めどなく溢れる涙が、両の眼から出た血の跡を洗い流していく。
 失われた声で嗚咽を上げながら、ケイはこわれんばかりにアンソニーを抱き締めた。

「──ねえ、ケイ。もう一度、さっきの唄を聴かせてくれる? とっても安心できるんだ。その、かもめの唄」

 抱擁されるがまま、アンソニーはケイに子守唄をせがむ。ひとしきりしゃくり上げた後、ケイは肯いた。
 ゆっくりと互いの額を合わせ、眼を閉じる。在りし日の声に乗せた唄を脳裏に浮かべ、声を忘れた唇を動かし続ける。
 そうして、父母を亡くしたアンソニーに伝える。顔さえ忘れた母の唄を。記憶の底から引き揚げた、ひとかけらの愛の思い出を。

 薄青の月明りに照らされながら、ケイは懐に抱くアンソニーに唄い続けた。抱かれるアンソニーは身じろぎ一つせず、ケイの唄を聴き続けた。
 静寂しじまに満ちた木立の中、二人の間にだけ、子守唄の穏やかな調べが流れ続けていた。




 三日後、夜明け前。ケイとアンソニーは汽車の長椅子に座っていた。
 ハーマンの死は商会に混乱をもたらした。その混乱に乗じ、ケイはアンソニーの記憶したハーマンの隠し財産を収奪し、かねてより目星をつけていたルートを用いて逃走した。現在はラハトン地方を目指す旅路の途中である。商会の縄張りであるキリア地方は、遥か後方に流れ去って久しい。

(…………でも)

 紫がかった夜明けの空を車窓越しに眺めつつ、ケイは溜息を吐く。
 ラハトンに格別の伝手つてがあるわけではない。商会の息がかかっていない、比較的治安の良い大都市。ただそれだけの理由で選んだ逃走先だ。ハーマンの残党が自分達を追って来ない保証など有りはしない。むしろ商会のメンツ、そしてアンソニーの利用価値を考えれば、このまま野放しにしておくはずもない。血眼になって追い回してくることだろう。喉元に大きな傷を持つ女、そして金髪の少年の二人連れ。身を隠し続けるにはあまりにも目立つ。
 ラハトンに着いたら医者を探さねばならない。自分の傷を隠し、顔形を造り変えるだけの腕を持つ医者を。
 汽車が大きく揺れた。ケイの膝を枕にして眠りこけていたアンソニーが、小さくうめいて眼を開く。見下ろすケイと眼が合った。

『──起きた?』

 唇だけを動かし、ケイがアンソニーに語りかける。寝ぼけ眼のアンソニーは小さくかぶりを振ると眼を閉じた。しかし眼が冴えたのか、再びうめき声を上げて眼を開く。その様子を見て、ケイはアンソニーを起き上がらせた。
 子守唄を聴かせてやりたいが、額を合わせたままでは乗客に奇異な印象を与えてしまう。アンソニーを前向かせたまま自分の膝に座らせると、その右手に自分の手を添わせる。持ち上げたアンソニーの右手を自分の喉に押し当て、口を開いた。


 かもめよかもめ なぜ飛ぶの
 かもめの下には青い海
 かもめは海には入れない
 かもめの上には白い雲
 かもめは雲には届かない
 かもめはゆうるり 飛んでいく


 ケイの肌の温もり、そして声を発さぬ喉の振動がアンソニーの指先に伝わる。音なき子守唄に安心したのか、アンソニーが次第に項垂うなだれてゆく。


    かもめよかもめ どこ行くの
 まだ見ぬおかへ飛んでくの
 かもめの下には青い海
 白いかもめはひとりだけ
 かもめの上には青い空
 白いかもめはひとりだけ

 口に小魚くわえたかもめ
 ゆうるり飛んで どこへ行く


 アンソニーが寝入ってからも、ケイは自分の喉にアンソニーの指を添わせ続けた。アンソニーが安心して眠れるよう、声なき声で子守唄を唄い続ける。寄る辺なきかもめの唄、ケイとアンソニーの姿をそのままかたどったかのような漂白の唄を。

 汽車が鉄橋に差し掛かった。海の向こう、紫を経て橙に染まる地平線から、朝陽の頂点が姿を現す。
 一条の陽光が針のように眼を射る。鋭いオレンジの光に眼を細めながら、ケイは一層唇と喉を震わせた。

〈了〉